月の微光が、海面を照らす。絵で描かれるような幻想的な星空なんか都合よく現れることもなく、月明かりに照らされた海に光る粒の方がよっぽど、まばら雲の夜空より綺麗な星空に見えた。

 仕事終わりに近くのコンビニで缶ビールのロング缶を二本と筒状容器のポテトチップスを買い、この海を訪ねては晩酌する。
 仕事で初めてミスをしてお叱りを受け、凹んだ傷を癒やしに一度この海に来てから、お叱りを受ける度に仕事終わりにはここに来るようになった。なので、週六日ここに来ている。

 あの頃思い描いていた未来とはまるで違う現実。見えない何かに怒りが湧く。僕は道を踏み外したのか、それとも誘導されていたのか。もし後者なら一体どこで、誰が僕をこんな所に、何の為に連れてきたんだ。

 世の中の大きな流れに紛れてしまって、逸れてしまって。でもここまで運ばれてきた僕の立っている今は、何も"選ばない"を選んできた僕の足跡が証明する。くそ、自己嫌悪の渦は深く深く、日々僕をゆっくりと着々と溺れさせていく。

 そんな怒りをビールで誤魔化す。あぁ、ビールは変わらず美味い。

 ...あれ、でも子供の頃、悪ふざけでほんの一口飲んだ時には、こんな飲み物を何で大人ってのは好き好んで飲んでるんだろう、と思っていた。

 いつからだろう、酒が美味くなったのは、
 いつからだろう、過去に憧れ出したのは、
 いつからだろう、自分が嫌いになったのは。

 この小さな浜辺だけが好きだ。
 夏になると冬眠から目覚めた大勢の若者が海水浴に訪れ、太陽の光に感染させられたかの様に眩しさ満天の太陽星人が欲望を埋めるのにその海を利用する。

 その海水浴場から数百メートル離れた場所にポツンと、まるでクラスのはみ出し者みたいな佇まいをした、正式な名前も無い小さな浜辺に僕は親近感を抱いた。

 僕は勝手に「はぐれ浜」と呼んでいる。
 はぐれ浜は建物や街灯も周りには少ないので、夜になると何かから隠れるように姿を忍ばせ、青は闇と化す。
 月と海の共作でできた星空の海は僕だけの夜空なのだ。
 さざなみと遠くから聞こえるコオロギとスズムシの鳴き声は、僕の憂鬱に似合っている。


 さて、僕は近々、死のうと思っている。
 単純に、生きている理由が見当たらないのだ。
 今、目の前に広がっているこの景色は素晴らしいが、それでも仕事のストレスを全てチャラにしてくれる訳ではないし、このまま生き続けていてもただマイナスが積み重なる一方だ。幸せが見込めないなら人生に価値などない。だから死ぬ。至ってシンプルな答えだ。

 ここで溺れてこの海の一部になるのはとても素敵なことだと思ったけれど、それじゃまるでこの海が僕を殺してしまったかのようで少し申し訳ない。好きなものには殺人はして欲しくない。
 だからこの海の正面にある小さな病院の屋上から飛び降りようと考えている。人を生きさせる建物で人が自ら死んだら、少しは怨みを込めた報復を世の中にぶち込めるだろうし、この海周辺は人もいないから…?

 ……人が歩いている。はぐれ浜の脇に設けられた桟橋を。はぐれ浜で人に会うことは今まで無かった。
 まあ、これだけ通い続ければ一人くらい遭遇したっておかしくはない。あれは、女性だろうか? 月明かりに照らされた長い髪が風に踊っている。暗くてよく見えないが、恐らく白系のワンピースの様な服を着ている。

 彼女も何か辛いことでもあったのかな、なんて気持ちが頭の隅っこに小さく浮かび、握り潰す。他人の不幸は対岸の火事であり、自分には関係のないことだ。

 彼女は存在の確認は辛うじてできるほどの場所に座り込んだ。
 何か、彼女の体半分を超えるほどの背丈の荷物を持っている。それが何なのかは断定できないが彼女はその荷物をいじっている。


 それからしばらく彼女を見つめていた。






 ふと我に返るとビールの缶が汗をかく様に結露していた。口にすると不快なぬるさだった。
 僕は腰を持ち上げ、体感にして十分にも満たない晩酌を終えた。

 
 僕がこの海に初めて訪れたのは、上司に初めてこっ酷く叱られた日の夜だった。就職して間もない一人の若者にとって、職場での人間関係や自分の立ち位置は幸せに生き抜く上での基盤となる。

 僕はまずまずの学力とまずまずの手際の良さを持ち合わせていると自負しており、仕事をする上においてはまずまず優秀なのではないかと自己評価していた。
 アルバイト時代ではパートのおばちゃんに気に入られていたし、店長からもよく働いてくれる、と評価されていた。

 しかし、現実は想像とは程遠く、僕は「マズマズ」だった。自分の無能さに自分で驚いた。

 今思えば高校生だった当時の僕におばちゃんがちやほやしてくれるのは僕に限った事ではないし、店長の言う「よく働いてくれる」は仕事における尽力度や質ではなく、単なる労働時間の量であることは容易に理解できたはずだ。

 僕はそれらを自分に都合良く解釈して自分自身を擁護し、防衛していた。想像していた自分は全て虚像だった。

 特にコミュニケーション能力は最悪だ。もし成績表があるなら1にも満たないだろう。人がかけてくれる言葉に対する正解の返答がさっぱり分からないのだ。挙げ句の果てに、反射的に無愛想な返事をしてしまう。
 そして、まともに会話も出来ず、溜まった、濁った空気が全身にまとわりつく。これが一番苦痛だった。

 ムカつくのは、無能さを理解する程度の中途半端な頭くらいは持ち合わせているせいで、自分が周りにどんな目で見られているのかが肌感覚で伝わってくる。

 こんなことならいっそ度を超えたバカに生まれたかった。自分の能力の低さに気づけないくらいの低脳ならむしろ生きやすかったのだろう。

 世の中には辛い仕事を我慢して笑顔を作っている大人が大勢いる。こんな事で死ぬなんて、と自分自身でも思う。でも、守るべき者もいない僕にとって本当を押し殺してまでも人生を続けることに意味を見出すことは出来ない。
 自分の弱さも理解している。そんな脆弱な自分に腹が立ち、死にたい自分にまた死にたくなる。

 大人の人生の第二のホームである職場の居処を完全に失った僕は今後訪れる未来への希望も同時に失ったのだ。

 いや、そもそも僕には本当の"居場所"なんて、今まで一度たりとも無かったか。

 人の希死念慮は、死にたい理由が積み重なった時だとか、生きる理由が見当たらないだとか、そこまで複雑なことじゃない。ただ、命が邪魔なのだ。

 生きる意味とは何だろう。
 幸せとは何だろう。
 何処に行けば、何をすればそれらは見つかるのだろう。

 その日の夜、この海を見つけ、目の前に広がる海水が酒なら一晩で飲み尽くしてやると言わんばかりに、出来るだけ僕が僕から逃げる様に暴呑をした。酒により僕と僕とが乖離し尽くした先で待っていたのは、それでもやはり僕だった。蕩揺の意識で叫んだ。



「゙あ゙あ゙あ゙ああぁぁーーーー‼︎‼︎‼︎」
 
 





 いつも通り満員電車で出勤し、いつも通りの説教、いつも通り昼にコンビニのざるそばを食べ、いつも通り残業を三時間ほどこなし、退勤した。そしていつものコンビニでいつも通り缶ビールとポテチを買い、いつも通りの海に来た。
 いつもの海はいつも通り綺麗だった。いつも通りビールは美味い。いつもと違うのは僕の心持ちだけだった。
 
 昨日と似た服を着て同じ荷物を背負っている彼女はどこか幻想的だった。夜と月が彼女に群青を着せ、近づけば消えてしまいそうな、煙のような雰囲気を帯びていた。

 ところが彼女は昨日と打って変わって、桟橋ではなく浜の方へやって来た。同い年くらいだろうか。昨日は見えなかったが厳重にマスクをしている(僕も普段はしているがここでは酒を飲む為外している)。

 彼女は少しずつこちらへ向かってくる。全く面識もない他人なのに、何だか緊張する。

 彼女は僕の存在を認知したようだったが、気にすることなく僕から約七、八メートル程の距離をとり、座り込んだ。昨日に比べればかなり近いぞ。

 話しかけようか…かなり迷っている。
 いや、本当は話しかけたいのだ。だが、それができない自分の言い訳として「キモがられるかも」などと身を護り逃げている。

 僕はこうしていつも人生が変わるきっかけを待っている。望んでいるのではなく、期待している。
 数分の沈黙が過ぎた。

 間違いなく居心地は悪いのに、もう少しここに居たい。
 


 結局彼女には声を掛けられなかった。声を掛けようにも何と話しかければいいか分からなかったし、急にこんな所で見知らぬ男に声を掛けられたら間違いなく不審者と思われるだろうと言い訳をし、勇気を都合で上塗りする。
 自己嫌悪リストに「臆病者」が追加された。
 
 重い腰を持ち上げようとしたその時だった。

 腰を上げようと目線を下ろした先の砂浜に右から小石が転がってきた。小石が来た方へ視線を向けると彼女がいる。僕はチラッと彼女を見た後すぐに石の方へ目線を戻す。ゴルフボールほどの大きさの石にはなにやら文字が書いてある。
 辺りは暗かったが月のライトが助けてくれる。
 

「こんばんは」

 立て続けにもう一つ同じ程の大きさの小石が転がってきた。それにも文字が書いてある。


「共犯者くん」

 



 


 音楽をすることは、犯罪だ。










 音楽をすることは、犯罪だ。
 僕が生まれる何十年か前からこの法律はあるらしい。
 軽犯罪に該当するみたいだが、正直、何をもってして音楽なのか、音楽とは何なのか、というのは曖昧らしい。
 僕が育ってきた過程において音楽は音楽という言葉のみで、音楽がどういうものなのか、音である事、という位しか理解している事はない。
 それくらい音楽という文化からは距離が離れたところで生活している。

 音楽は聴くことも罪になる。音楽はやってはいけないし、聴いてもいけない。だが、そう教わることもない。普通に生きていれば音楽は僕らの生活に概念すら存在しない。

 くそ、気付いていたのか。
 「共犯者」と言うことはつまり、昨日彼女が奏でていた音楽を僕が盗み聴きしていたことを指している。彼女は僕がいることを認識していて、それを理解しつつも音を奏でたのだ。

 「ああ、えー、気付いてたんですね、いや、すみません」
 本当ならキレてもいいはずだ。見ず知らずの初対面の男を犯罪に巻き込んだのだから。
 だが、怒らない。怒る事はただでさえ面倒くさいのに、その怒りはさらなる面倒を引き起こす。押し殺すのが生き抜く上で楽だと学んでいる。
 
 
 彼女は僕に軽く微笑みを向けた。僕は一度も目を合わせられない。
 僕はそこまで怒っていない。と言うより、全く怒っていない。むしろ、少し嬉しかった。

 共犯。悪くない響きだ。

 それから数分、お互い一言も交わさずに沈黙が流れた。
 彼女は微笑んだ後、海を眺めていた。

 僕は目線、言葉、心をどこに向ければ良いのかさっぱり分からず、誤魔化すようにチビチビと缶ビールに何度も口をつけていた。

 「あ、あの」
 なぜ、話しかけたのだろう。その理由は一瞬で忘れてしまった。いや、きっと理由なんてなかった。  
 頭よりも先に口が動いた。

 彼女が僕の方へ顔を向ける。それに合わせて僕は目線をほんの少し下げる。
 「あ、ここにはよく来るんですか?」
 何を聞いているんだ。お前は週六でここに来ているのだからそんなこと聞かずとも知っているだろう。

 案の定、彼女は首を横に振った。
 「あ、そう、なんですね..僕、よくここに来るんですけど、良いですよね、ここ」
 なんだそれ。不明瞭過ぎて何が言いたいのか分からないだろ。何がどう良いのか説明しろ。しかもお前がここによく来ることなんてどうでもいいだろ。
 それと必ず話し始めに「あ、」って言うの本当にやめろ。惨めだから。

 一言発するたびに心の中のもう一人の僕が僕の発言に総ツッコミしてくる。何かを話すたびに僕は僕を病む。
 だが彼女は三日月の様に目尻を下げて、コクリと頷いてくれた。

 「あ、ですよね! 僕、ここのことを『はぐれ浜』って呼んでるんですけど、なんか、この浜はきっと、一人ぼっちなんです。世界から仲間外れにされているような、きっと寂しい筈なんです...まあ、本当に寂しいのは僕の方で、いつも慰めてもらうのも僕の方なんですけど...」

 …やっちゃった。ああキモい。誰も来ない、誰も知らないただの塩水と砂に名前をつけ、さらにはこいつは寂しいだと? まるで海に感情でもあるかの様にぺらぺらと意味の分からないことを。
 これで彼女はきっと僕を変人だと思うのだろう。本当に、何をやってんだ。

 仲良くしたい人が出来る度、僕はこれを繰り返してきた。 ただ仲良くなりたい一心で、けれど正しい会話のラリーが出来なくて、静寂が怖くて一人で喋り倒し、一人で振り返り、一人で引かれたと思い込み、一人で落ち込む。

 僕はきっと人と上手く関わることが出来ないタイプの人間なのだ。
 そうして細い繋がりと離れて孤独になった。断ち切ったわけじゃない。断ち切れる勇気などない。
 本当は、出来ることなら友達だって欲しかった。孤独とは一人ぼっちな事なんかじゃない。孤独とは自分と誰かとの心の距離なのだ。
 孤独とは糸よりも細く、水平線の先より遠い繋がりを感じることだ。
 本当の一人ぼっちは孤独にもなれない。
 独りじゃないから、だから、孤独は辛い。

 「あ、ごめんなさい」
 ふと我に帰る。
 考え込むと体を置き去りにして脳の世界に飛び込んでしまう。
 彼女の方を見ると、ノートにマジックペンで何かを書き終えたようだった。僕の方を向くと、彼女はそのノートを僕に向けた。
 






 「声が出せません」

 
 「え、」
 言葉が続かない。正しい返事が分からなかった。
 「あ、あー…」
 どうしよう。どうしよう。頭をフル回転させたが、正解などあるわけが無い。
 ちゃんと人に配慮が出来るくらいの興味関心を他人に持っていれば上手い言葉が見つかるのかもしれない。生憎、僕はそうは生きてこなかった。
 
 「あ、じゃあ」
 僕は考えた末に閃いた答えに粉塵の希望を抱く。
 両手の人差し指だけ伸ばし、人差し指同士を互いに向けて手をグルグルと回す。その後、右の掌を仰向けにして、肘を曲げ、細かく三回ほど揺らす。

 彼女は驚いていた。しかし、すぐニコッと笑顔に変わり、右手の指先を左胸上部にあててから右へスライドさせた。
 
 手話は中学生の頃、好きになった。
 口下手な僕だけど手話ならなぜかすんなりと伝えたい事が表現できた事がきっかけでかなり勉強した。けれども僕が好きだったのは手話を話す事よりかは、聞くことだった。

 手話は基本的に単語を並べ、その単語の並びから文章を推測する。例えば「私」「りんご」「好き」であれば「私はりんごが好きです」という風に。

 僕はこの話し手の伝えたい事を考察する作業が好きだった。話し手が伝えたい事を理解する事が、その人との繋がりを確かに感じられる。その実感が欲しかった。
 僕が彼女に話したのは
 「手話はできる?」
 彼女は、「できるよ」と返してくれた。
 もしかしたら、と思ったが良い方向に転んだ。勉強しておいて良かったな、と胸を下ろす。

 「よかった。勉強してたのはもう何年も前だから話すのはあまり出来なくなってるけど、聞くならまだいけると思うから」
 なぜかこの時から僕は彼女にタメ口を利いた。手話の世界ではあまり敬語という概念が存在しない為、口頭で話すとしても手話モードになると無意識にタメ口になってしまった。 彼女はあまり気にしていない様だった。

 「ありがとう」
 「いやいや、こっちこそ、要らないことをぺらぺらと喋っちゃって」
 「本当に分かるよ。君の気持ち」
 本当なのか社交辞令なのか分からなかった。
 
 「全部、終わっちゃえば良いのにね」

 彼女は微笑し、そう言った。
 その目を見ても真意が分からなかった。けれどなぜか、その一言に、温度を感じた。

 


 

 彼女に昨日の帰り際、「また明日」と言われた。
 見かけに寄らず中々に強情な女だな。と思ったが、そんな一言で心躍りつつある自分自身にムカついた。
 そしてこれほどまでに僕を苦しめた"怒り"も、こんなに安い"楽しみ"が上書きしてしまうから人間は不思議だ。まるで今までの自分が阿呆らしくなる。



 「それは?」
 「カセットテープだよ」
 「カセットテープ?」
 「まだ音楽が禁止される前に、昔の人たちはこれで音楽を聴いてたの。これに音を録音してね」
 安いデジタルカメラの様な見た目をしているカセットテープにはいくつかのボタンがあり、彼女は横向きの三角形が描かれたボタンを押した。

 ザラザラと雑音がかなり含まれているが、さまざまな聴いたことのない音が同時に、複雑に鳴っているのになぜか親和性がある。その音を背景に英語の声が聴こえる。
 他国の音楽らしきその楽曲の良さは、音楽初心者の僕にはあまり分からなかった。

 「どう?」
 「あー…うん、いいね」

 否定することを僕は苦手としていた。
 人の持つ一つの考えを否定することで、それがその人の存在自体を否定していると思われてしまったらそれは不本意だ。
 けれど人に否定される時、僕はそのように拡大解釈する癖があり、否定という行為そのものが面倒くさい。

 「あ、嘘だねぇー」

 手話だったが確実に分かった。
 今の「嘘だね」の「ね」には「ぇー」と伸ばし棒が付いた表現が適切であること。それは彼女のニヤけ顔で理解した。 つまり彼女は僕をからかっているのだ。

 「ごめん。正直言うと、正しい聴き方みたいなのが分からないや」

 彼女が笑う。

 「聴き方なんてないよ。気楽に聴けばいい。簡単だよ。ロックンロールは骨で聴く」

 ロックンロール、という言葉は知っていた。
意味を定義することは難しい抽象的な言葉として認識している。
 安い表現だが、カッコいいとか、イカしてる、みたいなのの類義語として『〜はロックだね』みたいな感じで学生の頃にクラスメイトが言っているのを聞いたことがあった気がする。僕は発したことはないけれど。

 ロックンロールは元々音楽のジャンルなのだ、と彼女は教えてくれた。

 「余計分からなくなったよ」
 「そうかなぁ、ま、きっといつか分かるよ」
 「いつか、か」

 彼女は僕にこれからも当たり前に音楽を聴く前提で話をしているが、それは普通に犯罪なのだ。
 彼女は本当に僕を犯罪に巻き込んでいることをちゃんと理解しているのだろうか?

 「そういえば、いつも持ってるそれ」

 僕は彼女の大きな荷物を指差す。

 「それで音楽をするの?」
 「うん。『ギター』だよ」

 瓢箪に棒が生えたような箱の中からギターを取り出す。
 
 「聴きたい? 犯罪だけど」
 「何を今更…」

 彼女の笑みは彼女自身が笑っているのか、それとも僕のことを笑っているのか分からなくて、それに振り回されるのは少し心地が良い。

「……聴かせてよ」

 正直に言うと彼女は再びからかうように笑い、左手でギターの首の部分を掴み、右手を瓢箪の真ん中辺りに添える。中央には穴が空いていて、一番上からその穴の終わりくらいまでを何本かの糸が走っている。
 彼女は目を閉じ、すぅーー、っと息を吸う。
 

 彼女の指が糸を弾く。




 
 それは、言葉では表せない。

 確かに音だ。音の連続。
 しかしその音には上下があり、波のように流れる。
 その上がり下がりが時に僕の心のポケットにスポッと嵌まる。それに堪らなく心が揺れる。

 胸の高鳴りを感じた。これはきっと、今僕は悪い事をしている、というところから来ているのだろう。
 世界の陰でひっそりと暮らした僕は、オートバイでの多少のスピード違反や、音楽に触れる程の小さな犯罪にさえ手をつけたことは無かった。
二、三分ほどの音楽はあっという間に終わり、弾き終えた彼女は閉じていた目をゆっくりと開いた。

 僕は次に取るべき行動が思い付かなくて、瞳を見る勇気はなくて、ただただ彼女の弾き終えた指を見つめる事しか出来なかった。

 「どうだった?」

 彼女の問いに対して正しい答えを伝えることは出来なそうだ。

 「分からないんだ」

 彼女は笑う。

 「また、難しく考えてるね?」

 「そうかもしれない。このざわつきが、何が何だか分からない。なぜか、初めて聴いてるはずなのに、懐かしいんだ。音を聴いてるはずなのに、景色がある。耳で聴いてるはずなのに、香りがある…みたいな…何なんだろう、こう、なんかぐちゃぐちゃにされる感覚は」
 
 一瞬考え込み、ふと我に帰る。
 彼女の方を見ると彼女は僕にグーサインを突き出し、満面の笑みを見せた。

 




 彼女の弾いたギターの音色が頭にこびり付いて離れない。 引き剥がそうとすればする程、返ってあの音は僕の頭を支配するかの様に泳ぎ回る。
 出来ればずっと鳴っていてくれて構わないのだが、仕事中にまでくっ付いて来てただでさえやる気の起きない仕事がまるで手に付かない。

 また今日も"すみません"をして金を稼いだ。
 
 はぐれ浜に着き、自殺計画を一人で練る。場所は決まった。後はいつ、決行しようか。

 給料日が月末にあるのでせっかくならその日まで待って、パーっと全財産を使い果たして死にたい。でないとせっかく働いた苦労が無駄になる。
 何をしよう。パチンコ。死ぬ前に負けて終わるのは嫌だ。却下。
 風俗。わざわざ自分の秘部を知らない他人に晒して、それに金まで払う人間の神経が理解できない。却下。
 やっぱり、酒か。ウイスキーなら山崎12年とか、シャンパンもいい。せっかくの機会だ、いわゆる高級なお酒を浴びるほど飲もう。

 僕の死は祝祭だ。

 それに、死ぬ前は泥酔じゃなきゃダメだ。じゃなきゃあの病院の屋上から飛び降りるなんてとても出来ない。死にたくても高い所は普通に怖いし、そこから飛び降りるなんてシラフじゃ無理だ。


 …僕が死んだら、彼女は悲しんだりしてしまうのだろうか。ふとそんなことを思う。


 それにしても、音楽に触れてみたけれどこれがなぜ犯罪なのだろう。人を傷つけることもなければ体に異変があるわけでもない。

 「気になることがあるんだけど……」
 「何?」
 「何で音楽が禁止されてるのか知ってる?」
 「シングが原因だって言われてるよね」
 「シングってシングウイルスの事?」

 シングウイルス。名前は知っているが実際どういう病気なのかは知らなかった。

 「うん。もう何十年も前に流行した感染病で、当時は医療がまだまだ未発達だったからかなり被害が大きかったみたい」
 「だとしても、なんでそれが音楽の禁止に繋がるの?」
 「シングが流行って、多くは軽症で済んだみたいだけど重症になる人もいて、そんな重症者に有効な治療法は無くて…それで、当時の人たちは歌に頼ったの」
 「歌?」
 「うん。音楽はね、祈りだった。闘いようのない未知のウイルスに対して、人々は祈ることしか出来なかった。毎日皆で歌ったみたい。無意味かもしれなくても、そうでもしていないと皆の心の方が保たなかった」

 音楽は祈り。僕はまだ音楽に触れて間もないけれど、それでも言わんとしていることは分かる気がする。
 昨日聴いた彼女のギターの音色は今でも僕の心臓で当時のまま保存されている。あの音を心で再生すると、救いとは言わないまでも少し穏やかを取り戻せる気がする。まるで御守りのように。

 「でもね、それが最悪の事態を招いた」
 「え?」
 「日本中で祈りの歌は歌われた。でもそれがまずかった。実は彼らが集まって歌っていたその空間でシングウイルスは飛沫感染を広げていたの。皮肉だよね。抵抗と希望の為の行為が、実は自分たちで感染を拡大させていた」

 「……」
 「感染拡大の原因がまさか自分達だったなんてショックだよね、事実が発覚して、感染者の中から精神を病んで自殺する人が急増した。最悪な二次災害だよ」

 「歌を歌う事によって流行したからシングウイルス、か」
 「そういう事。最初は自主規制したり不用意に外出しないようにしたり個々で対策をしたみたいだけど、当時はインターネットもないし、情報の回りも悪かった。そして止まらない被害を抑えるため、遂に国は音楽そのものを禁止した。当時の国民は既に音楽を恨んでいたから反対派も少なかったみたい。実際にそれからシングウイルスはみるみる衰退していったみたいだしね」

 確かに、僕が今生きている現代でシングウイルスの感染者など聞いた事はない。

 「ん? って事はさ、今も音楽が禁止されてる理由って…」
 「うん、私は無いと思ってる。音楽は今も世の中から除け者にされているけど、悪いのは音楽じゃない。本当は素晴らしいものなのに、音楽は歴史に置き去られた忘れ物だよ」

 かつて、シングというウイルスに甚大な被害を受けた日本人は、今でも音楽に罪を擦り付けている。

 僕らは変化を嫌う。挑戦を恐れる。
 心の片隅では、これではいけないと分かりつつも、大きな波に逆らい、見えない敵に抗う恐怖に怯え、自分自身の正しさはその他大勢の意見に吸い寄せられ、いずれ自分を失う。

 まるで僕の人生じゃないか。
 この歴史が僕に向けたアイロニーのように感じ、変わろうとしない世の中に、空虚な自分に苛立ちを覚える。
 
 「まあ、音楽が犯罪であろうとなかろうと、私にはどうでもいい事だよ」
 「そうなの?」
 「うん、どうでもいいよ、もう」
 
 彼女はたまに、よく分からない。
 いや、知り合って間も無いし彼女の事は何も分からないのだが、たまに何が分からないのかすら分からないくらい理解の外側に立っている時がある。
 だが彼女に言葉の意味は問わない。何だか不粋な気がするのだ。

 「音楽は音楽だよ。私は音楽が好き。それが良い事なのか悪い事なのかはどうでもいい。誰かが決めた正しさより、私がそれを好きである事の方が重要だから」

 君の美しさは、きっとこういう所なんだ。
 僕にはない、僕の外側にあるものを君はしっかりと握っていて、決して離そうとはしない。
 信じる事に他人を利用しない。

 僕は君みたいになりたい。
 と、ふと思った。



 「それでさ、君にお願いがあるの」
 「お願い?」

 彼女からのお願い。怖い。

 「うん、私と一緒に歌を作ってほしいんだ」
 「君と? 歌を?」
 「うん」
 「僕が?」
 「うん」
 「え、何で?」
 「だって私、歌えないし」
 まあ、それは確かに。

 「それに、君から出てくる言葉が好きなんだよ。君の言葉は、眩しいから」

 僕の言葉のどこが眩しいのか、全く理解できなかった。
 "眩しい"という言葉は僕にとって最も似合わない形容詞だろう。
 何だか、笑われている気がした。

 「私も君みたいになれればいいんだけどね、なかなか難しいから、手伝ってください」

 え、

 苛立ちでも、悲しみでもない、だが確かな靄が頭にかかる。

 こんなに美しい君が、こんな醜い僕をなぜ褒めるんだろう、なぜ頼るんだろう。

 彼女の言葉の意味が分からなかった。
 そんなことを言われたら、まるで君を信じた僕が阿呆じゃないか。
 僕は僕の弱さを知っているし、君の輝かしさに憧れてる。
 だからその言葉は僕には嘲笑の類に聞こえた。
 きっと君は僕を馬鹿にすらしていないんだろう。
 
 「うん、出来たら」

 そう残して、僕は出会って初めて彼女よりも先にはぐれ浜を後にした。







 自暴自棄よりも、早く、速く。
 
 彼女の言葉が頭から離れなかった。
 僕はきっと彼女とは分かり合えない。
 だからこそ独りは寂しかった。
 明るい部屋が欲しかった。そこにはきっと、誰かがいなければ成立しないことを悟った。

 情け無く今日も僕ははぐれ浜へ向かう。彼女は変わらず、帰り際「また明日」と言ってくれた。

 彼女へどんな顔をして会えばいいのか分からない。
 それでも彼女はきっとそこに居る。
 足を、進める。


 「…こんばんは」
 「こんばんは」

 僕の方から挨拶をしたのは初めてで、それでも君は普段と変わらぬ微笑みを僕にくれた。

 普段と変わらぬ笑顔。だけど、何か違う。

 「どう? 雰囲気違う?」

 真っ直ぐに伸びていたストレートの彼女の髪が緩く網状に結ばれている。

 ああ、本当に僕は僕が分からない。
 何で嬉しいのだ。君の姿を見れる事が。
 心と頭と体が仲良くしてくれればもっと真っ直ぐ生きられたのに。
 君をしっかり嫌えてたのかもしれない。もしくはしっかり愛せてたのかもしれない。
 どれもが好き勝手な方向へと走っていくせいで、僕はやっぱり中途半端だ。

 「似合ってる?」

 「……似合ってるよ」
 僕は手話で返事をした。

 「くっくっくっ。ありがと」
 これで何度目だろう、君の笑い顔を見るのは。
 

 ——————そして、そんな僕も、一つ選んだ。

 「書いてみたんだ」

 君が僕の方を向く。普段より丸い目で。

 「…詩を…書いてみた」
 
 君の笑みがさっきとは違う種類に変わった。





 この宵今から切り裂いて
 私は光になれますか

 あの三日月に腰掛けて
 眠ればいい夢見れますか

 この街今から飛び出して
 私でも風になれますか

 あの頃の私を許せたら
 雨さえ愛しくなりますか
 




 詩は学生の頃は好きだった。
 本は、つまらない授業を受けるよりよっぽどましだったし、難しい表現はその文を見るだけで、意味なんて分からなくても僕を頭の良い人間だと思い込ませてくれた。
 社会人となった今ではめっきり読まなくなったが。

 「…良い」
 「そうかな…」

 もちろん詩など書いた事ないので、自信は無かった。
 ただ、詩を書いている時、夢中になって時を失う感覚は、とても気持ちのいいものだった。

 「やっぱり君の言葉は眩しいし、優しいよ。すごく好きだな」

 今なら彼女の言葉を少しは受け入れられる。
 ちゃんと行動を伴った場合の他人からの評価というものは嬉しいものだな、と今更ながらに思う。同時に自分の単純さも。

 「ありがとうございます」
 「じゃあ、と言う事はつまり、一緒に曲作りしてくれるって事で間違いない?」
 「僕に出来るのなら、やってみようと思う」

 音楽をやってみようと思えたのは、僕の小さな世界への反逆だった。一度はこの大きな世界に何かしらで抗ってみたかった。

 詩を書く事は単純に楽しかったし、僕はどうせ近々死ぬのだ。このくらいの犯罪くらいどうって事ないだろう。
 それに、世界から隠れて二人で悪さをする感覚も気持ち良さそうだった。

 「やったね」
 「いや、先に言っておくけど、自信はないからね」
 「私はあるよ。君がいれば、大丈夫だ」
 「また、勝手なことを」
 「だって、君はしっかりと人生を悲しめるでしょ。それはつまり、暗闇で宝探しをするようなことなんだよ。光がなければ宝石も輝かないけど、何処かにあるはずなんだ、って信じてるから、だから、悲しめるって事は、希望の裏付けだよ。だから大丈夫」
 
 君の言葉をしっかりと、聞いた。
 「ふっ」
 何だか笑えた。

 

 



 
 目覚めの良い朝など、本当にあるのだろうか?
 朝陽が差し込む窓に目が覚めて、体を起こし、背を伸ばす。
 布団から出て眠気眼を上手く扱いながらキッチンでコーヒーを淹れ、トーストと共に食す……なんて、そんなに朝は甘くない。
 満員電車で振り返ってみても眠気が強すぎて、起きてからどんな経緯を経て今ここにいるのか覚えていない。

 昨晩彼女と別れた後、幸せについて考えた。
 彼女といる時、僕は恐らく幸せでいる。
 しかし、それは当たり前だがいつまでも続くわけはなく、やがて別れ、家に着き、眠りに落ち、目覚めればまるであの幸せは錯覚だったかのように憂鬱は再び現れる。

 人は幸せを一本の線として捉えがちだが、実は一人の人間には何本もの幸せの軸がある。それは僕という一人の人間がもつ多面性に比例する。

 彼女といる時の僕、仕事をする時の僕、家で独りの時の僕、独身男性としての僕、両親の息子としての僕、今から見た昨日の僕、今の僕、とさまざまな面があり、それぞれの僕にそれぞれの幸せがある。

 その数ある幸せを全て同時に埋めることを人は幸せな状態、と呼ぶのだろうがそれはほぼ不可能だ。ある一つの軸にとっての幸せは、別軸では不幸になり得るから。

 稀に感じる幸せな瞬間とは、全てが満たされている訳では無く、僕の中の一つの軸の幸福度が高い状態でいる。その他の幸せではない軸の幸せについては"忘失している"のだ。

 僕は彼女と出会い、死ぬ日がどんどん楽しみになっている。

 僕の経験から言うと、例えば彼女と会った後、少なくとも寝るまでは幸せを感じている。それは過去に対する幸せであって未来に対する幸せではない。

 つまりその時の僕が感じている幸せは"今日会えた"ことに対する幸せであって"また会える"ことに対する幸せではない。その未来の幸せは仕事終わりに感じる。

 それで言うと僕の場合、不幸は未来に集約されており、多くの幸せは過去にあるのだ。

 つまり、死ぬ前の僕は未来=不幸がない状態で、幸福しかない最高の1日が確約されているのだ! 
 
 死ぬ間際に「幸せな人生だった」というセリフを残して亡くなっていく映画や物語があるが、そういうことか。とまだ訪れてもいない死に目の心情に共感する。

 死ぬその瞬間に幸せであれば、人生さえ幸せなのではないか。何だか気持ちがスッキリした。

 僕はその日を本当に心から楽しみにしている。
 

 だが、一つだけ気掛かりがある。
 死に際の僕の過去、またはその死に際に不幸ができた場合だ。
 
 彼女のギターの音色が頭を埋めた。








 「じゃあ、曲のテーマから決めようか。何か普段から感じてて伝えたい事とか、ぶつけたい思いとか、なんでもいいんだけどあったりする?」
 「あー」

 ポツポツとは思い浮かぶ。けれどそれはとても彼女に話せるような事ではなかった。

 死にたい……上司を殺したい……。

 人に話せるような、ましてや歌にできるような感情など、持ち合わせていない。クズなのだ。
 僕はどれだけの日々を無駄に消費してきたのだろうか、と身に染みてくる。

 「あはは、そんなに無理に引っ張ってこようと思わなくても大丈夫だよ。今日のお昼ご飯が美味しかったとか、駅のホームに着いたらちょうど電車が出ちゃってムカついたとか。小さな事でいいんだよ」

 そんなに思い耽っていただろうかと恥ずかしくなったが、素直に感情のトンネルを引き返す。すると、一つだけ浮かんできた。

 「ああ、それなら、この海が綺麗だと、思う」
 「確かに綺麗だね」
 「ここに初めてきた時、星が見える所を探してたんだ。仕事で上司に初めて怒られて、落ち込んでTwitterいじりながら帰ってたら、『人生色んなことがあって落ち込むこともある。けど大丈夫、なんとかなる。いつか笑える日が来るから、辛くても無理矢理にでも上を向け!』なんて生きてたら百万回聞くようなバーゲンセールみたいな名言風ツイート見てさ、鼻で笑いながらも真に受けるフリして缶ビールを買ってフラフラ歩きながら星を探してた」
 「雰囲気と違って可愛い事するね」
 「可愛くはないと思うけど。でも、未来が不安になって、何でもいいから縋りたかった。上を向けるきっかけがあれば何でも良かったんだ。それで歩いてたらここに着いた。正直こんな街じゃ歩いて星の見えるとこなんて辿り着けないのは分かってたから、疲れてここに座ってビールを飲んでたんだよ。それで帰り際ふと海を見たら海面に月の光が反射して、キラキラ光ってて、何だよ、上なんか向かなくたって星はあるじゃんか、ってなんか文句垂れながら、でも、よく分からないけど感動したんだ」
 「……」
 「まあ、だからって未来の不安が無くなることは無いんだけどね、安らいだんだ」

 彼女は一度茶化したきり、真剣に聞いてくれた。

 「素敵だよ。それ、曲にしよう」
 「え?」
 「絶対良い曲になるよ! やろう!」
 「そうかな、みっともないだけだと思うんだけど」
 「そんな事ないし、それでも良いんだよ。人なんて大抵みっともないものだから」
 「……そういうもんなのかなあ」
 「とりあえず君はその感動をもっと深くまで掘って言語化して歌詞にする。私はそれを聞いて音を作るよ。お互い良いと思えるものを探り合ってこ!」
 「う、うん」


 こうして彼女と初めての楽曲制作は二人が共に過ごしているはぐれ浜がテーマになった。

————————————————————————

 ……
 「曲には流れがあってね、決まった形はないんだけど基本はまずAメロ、Bメロとかって言う、その曲の世界観とかイメージをふんわりと伝えるパートがあって、その後にサビって言われる曲のメインパートがあるの」
 「走り幅跳びでいうところのAメロBメロは助走でサビで跳ぶ、みたいな感じ?」
 「幅跳びやってたの?」
 「いや、走るのは嫌いだけど」
 「そっか、まあ大体そんな感じだよ」
 

————————————————————————

 ……
 「Bメロはサビに繋がる部分だから少し抑えめに、歌詞もサビで歌うメインの詞の説得力を高める為の準備、みたいなイメージをするといいかも、高い波に見せる為には水面は低い方がいいでしょ?」
 「なるほどね」
 「泳ぐのは、好き?」
 「嫌い、かな」
 「そっか、それからサビの三小節目なんだけど……」

————————————————————————

 ……
 「この歌詞、すごい良いよね、私好きだな」
 「ありがとう、音色に浮遊感を感じたから、抽象的な言葉が合うかなと思って、あえてこういう感じにしてみたんだ」
 「浮遊感かあ。旅行は好き?私は飛行機に乗るのが好きなんだよね」
 「飛行機は地に足着けない感覚が苦手なんだよな、自分自身の力じゃもし墜落した時どう足掻いたってどうしようも出来ない不自由さと拘束感がダメ」
 「そっか、とりあえずここのパートはこれで完成でいいと思うな」
 「……もうちょっと興味示してくれても良くない?」

————————————————————————

 ……
 「例えば、嘘はついちゃいけないのかな、本にもフィクションとか、架空のキャラクターが設定されてたりしてるものがあるでしょ、それはある意味、嘘をついてるとも言える」
「嘘をついても良いんだよ。嘘や隠し事には選ばなかった、もしくは選べなかった本心があるものだから」
「…優しい考え方だね」

————————————————————————

 ……
 「この歌詞、ちょっと恥ずかしくない?」
 「そうかなぁ、でも、それが良いんだよ」
 「どういうこと?」
 「恥ずかしい、って事はちゃんと心から言葉が生まれてるって証明になるでしょ?」
 「…確かに」

———————————————————————















 



 そして、ああでもない、こうでもないと試行錯誤しながら、三日かけ僕らは曲を作り上げた。




 今まで生きてきてここまでの達成感や心のどこかに空いた穴が満たされていく感覚を味わったことがあっただろうか。

「出来たね」
「うん」
「出来ちゃったね」
「うん」

 この曲がこの世に生まれ、存在することによって助かる人など誰もいない。全く世界の役に立っていないたった二人だけの歌。
 
 その歌を彼女のギターに合わせて、僕は歌った。
 いつもと変わらぬ距離を保って。






 黒を肴に憩う秋
 月が遠くにあったんだ

 望みはそこまでないんだ
 ただ、生きていたいだけだ
 
 「星なんて所詮でかい石だよ」って
 君は言ってた

 「何で星は光るんだろう」って
 僕は思った


 君が星で僕は海 はぐれ浜で待ち合わせよう
 
 幸せなんてつまんないこと忘れちゃってさ
 
 君が月で僕は夜 世界の外で待ち合わせよう

 人生なんてくだらないもの忘れ去ってしまってさ

 藍を肴に惑う冬
 夢が遠くにありました

 望みはそこまでないんだ
 いつの間にか死にたいだけだ

 「愛なんてたったの2文字だよ」って
 君は言ってた

 「2文字に憧れるのは何故だろう」って
 僕は思った


 君が星で僕は海 はぐれ浜で待ち合わせよう
 
 幸せなんてつまんないこと忘れちゃってさ
 
 君が月で僕は夜 世界の外で待ち合わせよう

 人生なんてくだらないもの忘れ去ってしまってさ

 
 海に星が咲いているから

 海に星が咲いているから










 「ねえねえ」
 「ん?」
 「それ、欲しい」

 それ、とはビールの事だ。

 「ビール? 飲めるの?」
 「飲んだことはありません」
 「無いのかよ」
 
 ツッコミつつ、袋に入ったビールを一つ手に掴み、渡そうとすると彼女は両手を上げた。
 僕は彼女が取りやすいよう、ゆっくり、大きく振りかぶり、下投げでビールを放る。
 金色の缶が月の光に反射して輝くそれは、スローモーションな流れ星みたいだった。

 彼女がマスクを外す。これまでマスクは常にしていた為、彼女の顔全体を初めて見る。
 
 心なしか心臓の動きが急ぎだした。
 
 しっかりと掴んだ彼女は細い指に力を入れてタブを開ける。
 投げた際に中で振られてしまったビールがプシュー! と泡を噴き出す。
 お互いが顔を見合わせ、まるで鏡を見てるかの様に二人同時に笑いが溢れた。

 
 


 「それでは」
 「"海の星空"に」


 「「乾杯」」。






 「そういえば、良いものがあるよ」
 「良いもの?」

 彼女はギターケースを漁る。
 中から小袋を取り出すと僕にほい、と放り投げた。

 「……花火か」
 「少ないけどね、ここでやったら綺麗だと思って」
 「なんか、小っ恥ずかしいな」
 「人生一回きりだよ。恥ずかしい事こそ、やらなきゃ勿体無いよ」
 「うん、そうだね」

 彼女は少し赤らめた頬で花火の準備をし出した。
 少し酔いが回ってるのだろうか、まあ、楽しんでくれれば良いな、と思う。

 先から火花が噴き出し、鮮やかな色が夜に映える。

 「見て! これ綺麗!」と言わんばかりに彼女が僕に手を振る。
 花火が彼女を照らす。
 上半分しか見えていなかった彼女の、完成された笑顔にしか目が行かなかったのは彼女には内緒にしておく。
 
 
 出会ってまだ数日なのに、僕らはかなり親しくなった。
 
 僕らはそれでも、互いの距離をいつも通り保った。

 あっという間に花火は残り二本となった。

 「何で線香花火って最後にやるんだろうね」
 「そういえばそうだね」

 さっきの手持ち花火と比べれば明度は劣る線香花火は、しかし今までのどの花火よりも僕を釘付けにした。

 火をつけると先端にゆっくりと火球が蕾のように実っていく。

 蕾からチッ、と火線が弾け始め、蕾が開花する。

 やがて花は満開を迎える。無数の火花が小さく、小さく爆ぜる。

 そしてあっという間に花は散り際を迎える。
 さっきまでの勢いは衰え始め、火球は重力に抗うように真ん丸な形から少しずつ下へと垂れていく。

 その様子を眺めていると、背景の黒に愛おしさを感じる。線香花火が美しく見えるのは、この夜のお陰でもある。

 

 僕は初めて書いた先日の詩を心の中で改めた。



 光になれなくてもいい。
 僕は、多分そっちじゃない。


 だから君は、どこまでも輝け。僕は君という光をより眩しく見せる闇でありたい。
 

 僕は君の夜になりたい。





 「あっ」
 
 散った。彼女の方を見ると、ちょうど同じタイミングで彼女の方も散ったようだった。


 彼女は残された線香花火を見つめている。

 「散っても、それでも綺麗だね」
 「…うん、そうだね」
 「……なんか線香花火を最後にやる理由が、少し分かった気がしたよ」
 「どんな理由?」
 「他の花火と違って、線香花火は"しっかりと終わってくれる"から、かな」
 「しっかりと終わる?」
 「うん、他の花火は、急に消えちゃうでしょ? それはやっぱり、寂しいから」

 身体がゾクっとした。
 なんだか、彼女には全て見透かされているような、そんな気がした。

 







 「私、明日から三日間くらい、用事があって、来れそうに無いんだ」
 「そう、分かったよ」
 「それで、なんだけどさ、ギター練習してみない?」
 「ギターを? 僕が? 無理だよ、難しいでしょ」
 「上級者を目指すのは結構大変だけど、簡単なコードを押さえるくらいならそこまで難しくはないよ、会えない間にこのギター貸すからさ、今度は作曲もやってみたらどうかなって」
 「……作曲か、自信ないなあ」
 「基本的な弾き方とかは私のノートに書いてあるから、これも貸すからさ」
 「うーん、できるかなあ」
 「今回は二人の共作って形だったから、次は君が君の為に作った歌を、私は聴きたいな」

 君と一緒に作れるから、僕は作ろうと思えたんだ。とは、言わなかった。……言えなかった。
 
 「……出来るかわからないけど、頑張ってみるよ」
 
 






 「大丈夫? 近くまで送ろうか?」

 彼女の足が若干ふらついている。お酒はあまり強くないようだ。

 「大丈夫大丈夫。すぐそこだから」
 「……そう、気をつけて」
 「ありがとう、じゃあ曲、楽しみにしてるよ!」
 「やれるだけやってみるよ、じゃあ、またね」

 彼女に手を振り別れた後、少しだけはぐれ浜に残り、今日の余韻に浸りながらギターの練習を少しした。

 普段飲まないお酒を一緒に飲んでくれたのは、今日という日を彼女なりに楽しもうとしてくれたのであろう、という想いが伝わってきて嬉しかった。

 そろそろ僕も帰ろうと腰を上げると、彼女が飲んでいた缶ビールが置きっぱなしになっているのに気付いた。

 「世話が焼けるな」

 僕の空き缶が入っているコンビニのレジ袋にまとめようと思い掴むと、まだ三分の一ほどのビールが缶の中に入っていた。

 「……無理して飲む必要無かったのに」

 数秒躊躇った後、僕は残ったビールを飲み干し、レジ袋に放り込んだ。









 タイミングが良いのか悪いのか、僕は彼女と会えない三日間を有給休暇にしていた。
 死ぬ前に全て使い果たさなきゃ勿体無いと思っていた。

 本当なら死ぬ前の三日間に使いたかったが、そんな都合は会社に通るわけもなく、比較的忙しくなく、仕事が落ち着く今日からとなった。
 使えただけまだマシだと思える神経の麻痺具合に苛立つが、まあいい。もう何週間としないうちにあんな会社ともおさらばだ。



 ———急に消えちゃうのは、寂しい

 彼女の言葉が染み付いて離れなかった。
 僕は自殺することを彼女には知らせずに逝くつもりだった。しかし、彼女の言葉を聞いた今となっては、それは幸せな僕の死を崩す一言となった。


 本当は、心のどこかで気付いている。

 彼女と会う前までに抱いていた希死念慮を、吹き飛ばしてくれるあの時間。

 彼女と会って、他愛もない会話や音楽をしている時間が、僕にとってどれだけ大切なひとときになっているのかを。

 
 もし、このまま彼女と一緒に過ごせたら、僕は幸せになれるのではないか?



 「……分かってるんだよ」
 
 思わず独り言が洩れる。
 そうだ、いつだってこうやって期待して、そしていつも失敗してきたじゃないか。
 彼女ともいつか必ず、終わりが来る。まるで椿の花のように一瞬で、きっと呆気なく散ってしまうのだ。

 本当なら、依存だってできるならできるとこまでしたいんだ。
 でもそうすればするほど耐え難い反動が必ず待っていた。
 だからもう、依存なんてしたって損なだけなんだ。愛してしまった方が常に負けるように出来てるんだ。


 愛など信じられない。
 愛せば愛すほど、傷が深まるだけだ。


 愛なんて、愛することなんて、クソじゃないか。





 僕はどこまで、我儘なのだろう。

 
 


 「……もう、遅いんだよ」

 結局一日目の有給は昼寝と、ネガティブな事ばかりを考えている間に酔っ払い、終わってしまった。









 二日目の朝、鈍い頭痛を感じながら目覚め、冷蔵庫から水を取り出し一気に飲み干す。昨日はギターに触れることは出来なかった。

 シャワーを浴びた後、日当たりの悪い部屋の窓を開けると、モノクロな曇天が数ある隣家の隙間から覗けた。それはまるで僕の心のような霞みだった。

 いいじゃないか、よし、今日こそは…!
 



 プルルルルルル。プルルルルルル。

 電話が鳴った、仕事先だ。
 
 「はい、もしもし」
 「あー、休みのとこ悪いね」
 「あ、いえ」
 「急なんだけどさ、池田さんがコロナになっちゃって、どうしても今日の人手が足りないのよ。今から来れたりする?」
 「あ、えー、今からですか?」
 「そうだよ、どうなの?」
 「あ、え、はい、分かりました」
 「じゃ、悪いけどよろしく」

 プチッ。ツーーーー。ツーーーー。

 
 人生なんて、そんなもんだよな。






 「お前さ、何回言ったらできるようになるわけ?」
 「すいません」
 「ちょっと考えれば分かることだろうが、少しは頭使えよ‼︎」
 「すいません」
 「お前の謝罪に金払ってるこっちの気持ちも考えろよ」
 「すいません」
 「仕事もできねえ癖に有給なんかとってんじゃねえよ、そんな時間あんなら仕事覚えろ、バカが」
 「……」
 「明日も来いよ、人が足らねえから、使えねぇ手足でも使わなきゃいけねぇ」
 「……はい」
 

 仕事をしていると、自分という存在がこの世には不要なのだと思い知る。この命が邪魔なのは僕だけではなく、他人から見てもそうなのだろう。

 久々の一人でのはぐれ浜は少し冷たさを纏っていた。そろそろ秋も終わるのだ。そして僕も。

 もうすぐ死ぬというのに人生について考えてしまうのはなぜだろう。もしかすると僕はまだ、死を心のどこかで敗北と捉えているのか? いやそれは無いだろう。

 生きる、それだけで立派な人間だ、なんて、ふざけるな。 生きてるだけで偉いなんて、そんなわけがないだろう。それは、幸せを妥協した人間の言葉だ。

 奴らこそが敗北者だ。世界の駒として、目を閉じた負け犬の遠吠えが「生きてるだけで偉い」だ。

 僕は、負けない。絶対に僕の幸せを見捨てたりしない。幸せを見捨てるくらいなら、死んだ方がマシなのだ。世界に飼われて「偉い偉い」と空気より軽い言葉に踊らされて、そんな醜い姿で息ができるもんか。


 


 さあ、では一体、僕の幸せとは何だ?


 海面に一つ、二つ、と波紋が浮かんできた。雨だ。

 「……くそ、…くそ、………くそ‼︎‼︎」

 雨の音に耳を澄ます。無作為な音の乱立は、音楽に聴こえた。君と作った「海の星空」を、雨音をBGMに、心で歌う。





 「………もう、いいか」

 ポケットから携帯を取り出す。
 

 「……もしもし」
 「はい、何だ? まさか明日休むとか言わねえよな?」
 「辞めます」
 「は?」
 「せいぜい幸せになって下さい。お世話になりました」
 「おい! 何言って…」
 僕は携帯を耳から離し、大きく振りかぶって海へと投げ捨てた。



 「死ねええぇーーーー‼︎‼︎」


 最高だった。
 
 給料は手渡しなので手に入らないが、もうそんなことどうでも良かった。雨の中缶ビールで祝杯をあげる。
 若干の肌寒さはアルコールによって中和された。潮風が夢みたいに気持ちよくて、もはや風になったみたいだ。
 
 月は雲に隠れて、雨は僕を潤した。



 家に着き、びしょ濡れの作業着をゴミ袋に詰め込む。シャワーを浴びて、上機嫌のまま晩酌の続きを行なった。

 それから、ギターを手に取り、彼女のノートを開いて練習した。ふと気づいた時には夜が終わっていた。
 
 僕は一睡もせずに曲の制作に取り組んだ。
 一晩ではやはり、弾けるコードも少なく、そもそもコード進行というものの理解もあまり出来なかった。

 「……昨日の雨」
 僕は仕方なく理論的な方法で作曲するのを諦め、指弾きで色んな音を聴き比べながら四小節のアルペジオを感覚で作曲した。 
 これをループすれば一応それっぽくは聴こえたので良しとした。

 「後は、歌詞だな」

 何を書こう。今の僕に、何が歌えるのだろう。
 いくつかテーマが浮かぶ中、一つだけピンとくるものがある。だが僕はそれを書くのには勇気が足りなかった。

 結局三日間で曲を作り上げることはできなかったが、完成したら彼女に聴いてもらおう、と思った。


 しかし、その必要はなかった。

 彼女と曲を作り、歌い、一緒にビールを飲み、花火をしたあの日から四日目の夜も、はぐれ浜に彼女は姿を現さなかった。


 




 最初は、用事が長引いているのかもしれない。と思うくらいだった。こんなことならLINEでも聞いておけば良かったな、と楽観的に考えていたが、三日経っても会えないとなると、疑念を浮かばずにはいられないでいた。

 あれから1週間ほど彼女は姿を見せていない。

 ああ、やっぱり、こうなっちゃうんだな。
 
 人との別れは必然だ。だから出来るならこちらから離れたかった。僕の期待が彼女の気持ちを上回ってしまったが為のこの結末は、寂しさのみを残り香に、僕にあり続ける。

 あの時、僕が話しかけなければ、手話なんて最初からできなければ、君のギターをあの日聴いていなければ、こんな思いをせずに済んだのに。

 ああ、君はやっぱり世話が焼けるなあ。何故か放っておけないんだよ。忘れっぽいし、声が出せないから日常生活だって難しいだろ。その癖に人をからかう節があるから、困ったもんだよ。本当に困った。

 君のせいで、また孤独になっちゃったじゃないか。
 急にいなくなっちゃうのは寂しいって、そう言ったのは君の方じゃないか。


 これじゃあまるで、僕の全てが君じゃないか。


 だが、前までのそれらとは違う、僕の中には今までなかった思いが、彼女には浮かぶ。


 
 ごめんよ、僕なんかに毎晩付き合ってくれて。
 ごめんよ、強くないお酒を気遣って、一緒に飲んでくれて。
 音楽を教えてくれてありがとう。夜の美しさを教えてくれてありがとう。花火の美しさを教えてくれてありがとう。
 
 幸せの一つを僕にくれてありがとう。

 君は幸せになれるだろうか?
 君は、君には幸せになってほしい。
 
 











 はぐれ浜は今日も綺麗だ。
 水面には皮肉にも、星たちが踊るように光っている。

 ふらつく足元を自制しながら、最後の一口を飲み干し、ギターケースを背負う。
 砂浜で余計に足がうまく回らず、まるで僕を足止めしているように思えた。愛しいが、そんなはぐれ浜にも別れを告げる。

 柵を乗り越え、病院へ侵入する。
 もちろん表口の扉には鍵が掛かっているので、裏口に回ると、鉄の骨組みで組まれた非常階段を見つけ、再びその柵をよじ登った。何だか不気味で心臓が脈打つ。
 しかし、酔いのお陰かそこまで恐怖はなく、ある種の興奮のような類だった。

 コン、コン、と一段ずつ上がるたびに階段の鉄に靴底が叩く音が心地良い。子供の頃、仮面ライダーが同じようにブーツで鉄板の床を鳴らしながら歩く姿に憧れていたなあ、とふと思い出した。
 
 もう間も無く屋上に辿り着く。
 思い浮かぶのはやはり過去ばかりで、思い出が思い出のまま在り続けることは美しいなと思う。過去は未来によって簡単に書き換えられてしまうから、未来なき思い出は純白だ。

 「ふぅ」

 屋上の床に着くと、ズシリと足が重くなり膝に手をついた。
 そのまま中腰になり足元を見る姿勢をとると、スニーカーのソールの脇にはまだはぐれ浜の砂が落ちきれずに残っていた。

 「ありがとうな」

 僕は残った砂を手で落とす。そして膝を伸ばし前を見て数秒、僕は咄嗟に声が出た。



 「何を、してるんだ…」

 
 手摺の向こう側に、人影がある。
 白いワンピースは夜月により群青に染まり、長い髪が泳いでいる。

 「どうして、君が……」

 彼女も驚いているようだった。しかし僕はそれよりも驚いている。

 「君、声が……」

 彼女は両手で掴んでいた手摺から右手を外し、口を押さえる。

 「……声、出せるの?」

 彼女は俯きがちの顔を、さらに深く下に向け、うなづいた。

 「ごめんね、騙す気は無かったの」
 「いいから、とりあえずこっちに来なよ、危ないから」

 彼女の方へ足を進めようとする。
 「来ないで」

 「……何をする気?」
 「君は、今日は帰った方がいいよ、明日ははぐれ浜に行くからさ、また明日」
 「そんな嘘が通るわけないだろう」

 二人の距離はいつもより少し遠い、10m程のように思える。少しずつ彼女に近づく。

 「止めて」

 無視して近づく、6m、5m、はぐれ浜で会っていた時の距離よりもさらに近づこうとした。

 「止めて‼︎」

 僕は足を止める。

 「……わかったよ、話を聞かせて、手は離さないようにね」

 「君は何で、ここに来たの?」
 「…はぐれ浜から君が見えた」

 嘘だ。とりあえず何でもいいから彼女をそこから離せればいい。

 「嘘だね、あそこからじゃここは見えない」
 「……そうだね、嘘ついた」
 「本当の理由は、なんなの?」
 「多分だけど、君と同じかな」

 彼女は顔を顰める。

 「どうして…」
 「次は僕の番だ。君はどうして死のうとしているの?」

 










 「私は、シングウイルスの感染者なの」
 
 「え…」

 思考が停止する。だが直ぐに、それを裏付ける色々な彼女の過去の行動が頭に浮かぶ。厳重なマスク、適度な距離。手話……。

 「だから私に近づいちゃダメだよ。シングは感染力自体はそこまで強くない。3mも距離を取れば感染ることはほぼないから」
 「君は僕にシングを感染させないようにする為に、それだけの為に声が出せない振りをしていたの?」
 「シングはそんなに優しい病気じゃないから」
 「どういう事?」

 
 彼女は、シングウイルスの正体について教えてくれた。

 シングウイルスは感染力、症状ともに正しく治療すればそこまで強力な病ではない。

 しかし、シングの恐るべき所は感染力や症状ではなく、そのウイルスの性質にある。

 シングウイルスは体内に入ると一目散に脳へ向かう。彼らが欲しているもの、それはドーパミンだ。

 ドーパミンという神経伝達物質は人にやる気や幸福感を与えてくれる化学物質で、美味しいものを食べて幸せを感じたりするのも、脳内でドーパミンが分泌されているからである。

 だが、シングウイルスが特別好むドーパミンの種類がある。それが音楽を聴く、歌うことによって促進されるドーパミンだ。
 シングウイルスに感染した者が音楽を聴く、歌うと脳内のシングウイルスがドーパミンをさらに増幅させる。
 分かりやすく言えばシングウイルスが脳内でドーパミンを育成するのだ。
 だから、シングウイルスに罹った感染者は皆、音楽が好きになる。

 そうして脳内で育て上げ、熟したドーパミンをシングウイルスは一斉に食い尽くす。
 脳内のドーパミンは一気に過疎状態になり、鬱になる。
 シングウイルスは感染する精神病と言われており、シングウイルス感染者の自殺者が多いのはこれらが理由である。
 

 そして彼女も、その一人であった。

 「そうか……」
 「ごめんね、頑張ってみたけど、もう限界」
 「……」
 
 彼女との思い出が蘇る。
 そして、一つの思い出が浮かび、僕は安堵に似た気持ちが生まれた。

 「君は、生きてよ」
 「……」
 「君と会ってる時は楽しかったよ。そもそもあの桟橋でギターを弾いた時から、私は君が気になってた、いや、それよりももう少し前、君が初めてはぐれ浜に来て叫んだ声を、私はこの病院の病室から聞いてた」
 「そんな前から……」

 「私はシングに感染する前から音楽が好きだった。でも気付かぬうちに感染してて、音楽をしてた私の幸せをシングは奪っていった」
 「……」

 「少ない可能性をかけてここに入院することになったけど、感覚でもう遅いのは分かったよ。ベッドから起き上がるのさえ億劫になって、全部終わらせたい気持ちと、麻薬みたいに音楽欲だけはどんどん膨らんでいって、それを押し殺しながら過ごしてた毎日に、君の叫び声が聞こえた」

 少し照れる。あれを聞かれていたとは。

 「すごく、その声に勇気をもらったんだよ。全てに抗ってるような君の声が羨ましかった。だから私も覚悟を決めた。どうせ死ぬなら、好きな事して死にたいって。そして、君と話してみたいって」
 「それではぐれ浜まで来たのか」
 「病院抜け出すの、大変なんだから」
 「分かるよ。入るの大変だったから」
 「……君、真剣に聞いてくれてる?」
 
 僕は思わず笑ってしまった。

 「私のことからかってるよねえ?」

 彼女もこれから自殺するとは思えないほどには表情が柔らかくなった。

 「君の笑ってる理由が分からないよ」

 「君がそれを言うかなぁ」
 僕はツッコミを入れる。

 「とりあえず、色々と知れて良かったよ」
 「それで、君は私をどうする?」
 「そうだな……」

 数秒の沈黙が流れる。




 「歌を、聴いてほしい」
 「歌?」
 「うん、作ったんだ」

 今度は彼女が笑う。

 「色々話したのに、音楽を聴いてほしいなんてよく言えるね」
「仕方ないだろう、僕だってどうすればいいか分からないんだ」

彼女は少し悩み、「分かった、聴かせて」と言った。

 「その前に、こっちに来なよ」
 「それは無理」
 「どうして」
 「そっちに行ったら、こっちに戻れなくなりそう」
 「……そう、なら気をつけてね」

 僕は胡座をかいて、ギターとノートを取り出す。
 彼女はギターとノートを見て若干顔が緩んだ。

 「それじゃ」








 私は酷な人間です
 私は敗北者なのです
 椿に憧れてしまいました
 終わらせる椿などいないのに

 私は酷な人間です
 私は臆病者なのです
 花の名前を知りました
 教えることは出来ぬまま

 こんな私にできるでしょうか
 光の唄さえ歌えることが
 こんな私はなれるでしょうか
 貴方の夜になれるでしょうか
 
 
 私への餞を濃く吐くのです


 貴方は酷な人間です
 貴方は勝利者なのです
 もしアネモネが青に染まるなら
 それを貴方と呼ぶのです

 貴方は酷な人間です
 貴方は酷な英雄なのです
 花の名前をくれました
 線香花火をくれました

 そんな貴方にできるでしょうか
 思い出から消え去ることが
 そんな貴方はなれるでしょうか
 影すら残さずいなくなれ

 貴方への餞を酷吐くのです

 貴方の笑顔を知っています
 三日月を知っています
 貴方の笑顔を知らないのです
 まだ見ぬ色彩を集めたい

 貴方にも雨が降るでしょう
 私は傘を知りません
 せめて私はできるだけ側で
 貴方の雨に濡れましょう

 貴方にはギターが要るでしょう
 まだ私は返せていない
 世界が貴方を上から見ても
 私は横顔見つめよう

 こんな私にできるでしょうか
 貴方が私にしてくれたこと
 こんな私もなれるでしょうか
 貴方の夜になれるでしょうか

 貴方へのただ夢を、酷吐くのです



 


 「ふぅ」
 顔を上げると、彼女が泣いていた。
 ギターに集中していて気が付かなかった。
 
 「心配してくれて申し訳ないんだけど…」
 彼女がこちらを見る。

 「ごめん、恐らく、僕ももう罹ってる」

 「え?」

 「あの日、君が残したビールを飲んだ」
 
 「あっ」

 しばらく続いた沈黙を、僕の笑い声が破った。彼女は泣いていた。

 「どうせ今日死ぬつもりだったんだ、どうってことない」
 「……でも」
 「僕の方こそごめんよ、本当は僕も君に知らせず、死ぬつもりだった」

 ぐすっ。ぐすん。彼女が泣き過ぎている。
 
 「でも、いいだろう?」

 彼女がこちらを覗く。

 「嘘や隠し事には選べなかった本心があるんだろう?」

 彼女は泣きながら笑っていた。新たな笑顔を見つけられて嬉しい。

 「…うん」
 
 
 僕は彼女に告白する。勇気など要らなかった。
 

 「僕と死ぬまで一緒にいてほしい」


 僕は彼女の側まで行ってその手を掴んだ。

 「……ありがとうっ…………。」







 

 ザーーーーッ。ザーーーーッ。
 はぐれ浜はいつも通りだ。

 僕らは砂浜に寝そべっている。距離はゼロメートル。

 「……そろそろ、だね」


 「…うん」



 「本当にありがとう」




 「僕の方こそ、ありがとう」
 


 身体が思うように動かない。彼女は空を眺めている。僕は彼女の横顔を見つめている。

 さざなみが僕と、彼女の憂鬱に似合っている。

 僕は重たい身体を無理矢理起こし、彼女にお願いをする。

 「海の星空を、弾いてよ」

 彼女が微笑む。

 「いいよ」
 
 元のリズムより随分と遅く流れるギターの音色が、今の僕にはとても気持ち良く聴こえる。

 僕が口ずさむと、彼女が重ねて歌ってくれた。
 
 



 君が星で僕は海 はぐれ浜で待ち合わせよう
 
 幸せなんてつまんないこと忘れちゃってさ
 
 君が月で僕は夜 世界の外で待ち合わせよう

 人生なんてくだらないもの忘れ去ってしまってさ

 
 

 「君が僕の幸せだ」

 ふふっ、と君が笑う。

 最後に、僕らは二人で、線香花火に火を付けた。