…これは、泥水?
「キャハハハハ!!だっさ〜い!!」
麗華の笑い声で我に帰った。
「うっ…ゴホッゴホッ!…おえ…ペッ…!」
慌てて口に入った泥を出す。
尻餅をつき、上を、奈々美の顔を見上げた。
奈々美は、奈々美ではなく、ななみんの顔に戻っていた。
薄っぺらい笑みを口に貼り付けて軽蔑したような冷たい視線であたしを見ている。
もう、奈々美の面影は感じられなかった。
「きったなぁ〜い!!」
「写真撮ったよ!」
「うわっ!マジで泥だるまじゃん!」
「だっさぁ〜!」
「すっごいブスになったね!」
みんなであたしをからかい、口々に悪口をぶつける。
「奈々美、やるじゃん!」
「いっつも後ろの方で何もしないからさぁ、でも、見直したわ〜。」
「あは。うん。あたしも、ちゃんとやらなきゃね。」
奈々美はみんなに肩を叩かれてにこにこ笑っている。
———なんで。
奈々美は、こんなことをして笑う子じゃない!
「今日のところはこれくらいにしといてやるよ。清水愛香。でも、ウチら、許さないからあんたのこと。せいぜい明日を楽しみにするんだね!」
聖理奈があたしの胸ぐらを掴んで言い、あたしは校舎裏に一人で取り残された。
「………ひどい。」
どうして、こうなってしまったの?
あたしが、告発したから?
あれは、余計なことだったの…?
あんなことしたから、あたしがターゲットになったの?
イジメの?
あたしが、いじめられるなんて…
「ひどいね。大丈夫だった、愛香?」
パフッと頭にタオルが乗せられる。
「ゆ…りか…?」
「見てたよ。なんて事するんだろうね。」
見ていた…?
あたしのこころに、黒い感情が、シミのように現れる。
ずるい。
卑怯者。
「なんで…?」
「え…?」
あたしの気持ちは抑えられなかった。
「ずるいよ!!!ずっとそばにいるって誓ったじゃん!なんで、助けてくれなかったの!卑怯者っ!!!」
あたしのことばは、止まらなかった。
「あたしが、あんなことされてて、黙ってみてたわけ!?最低!ただ傍観していたの?ひどいよ!!」
「あい…か……」
百合香が悲しそうな顔をして、少し離れる。
あたしだって分かっている。
ずっと、八神さんがいじめられているところをただ、傍観していたあたしに、そんなこと言う資格なんてない。
あたしが一番よく知っている。
…だけど、止まらなかった。
本当に卑怯なのはあたしなのに。
あたしは、百合香に当たり散らしているだけなのに。
「ごめ……ごめんね…愛香…。」
「うるさい。もういい!!!」
あたしは、百合香に背を向けて走った。
「愛香っ…!」
自分が嫌になる。
こんな、こんな幼稚なことしかできないあたしが。
でも、あたしの心は、あたしの考えていることとは反対のことを感じる。
傍観者が、許せない。
八神さんの気持ちがわかる気がする。
あたしたち、傍観者は、いじめられている人を、苦しめる。
あたしは、完全に頭に血がのぼっていた。
時すでに遅し。
あの時の、一言で人生が狂う。
そんなことは、よくある。
いくら後悔しても遅い。
いくら自責しても、もう、手遅れ。
道を間違えたら、もう…
——————戻れない——————
「酷いことしちゃったな…」
家に帰ったあたしは、後悔していた。
今更、頭が冷め、あの時の百合香に放った言葉を、猛烈に後悔している。
百合香とのチャット画面を起動する。
何度も入力しては、消す。
こんな、無機質な文字じゃ、何も伝わらない。
あたしは、諦めて、スマホの電源を切った。
椅子にかかった泥だらけの制服を手に取る。
「はぁ…洗濯しなきゃな…」
お母さんがいなくてよかった。
今日は、お母さんは夜遅くまで仕事に行っている。
お陰で、汚れた制服を見られないで済んだ。
お母さんに、余計な心配はかけられない。
それに…
お母さんのことだ。
異常に騒ぎ立ててあたしが気まずい思いをする。
昔から何故か過保護なお母さん。
あたしが、約束の時間に少しでも遅れると、異常に心配した。
最近は、そういうお母さんを、ウザいって思っているのも事実なんだけど…
あたしは、キッチンで焼きそばを作って食べた。
そして、宿題をやって、寝る。
明日は、百合香に謝らなくちゃ…
そう考えながら、あたしは、眠りについた。
翌日、百合香は、いなかった。
休んでいたのだ。
「清水愛香〜!ちょっときて!」
昼休み、柑奈に言われてあたしは、麗華たちに近づいた。
「ねえ、今から、3分以内に、ウチらのパック弁当、買ってきて。早く!」
今度は…パシリ?
でも、あたし、お金あんまり持っていない…
「あ…あの、お金…」
「はぁっ!?そんなの自分で持ってんだろ?」
「え…?」
「早く行けって言ってんだよ!!」
柑奈に睨まれて、あたしは急いで教室を飛び出した。
購買に行ってパック弁当を5人分買う。
あたしの財布はほぼ空になった。
「か、買ってきたよ…」
「おせーよ。」
柑奈たちはお礼も言わずにあたしの手から弁当をひったくり、みんなで分け始めた。
グゥウウ…
匂いに刺激されてお腹が鳴る。
みんなの分を買ってしまったからあたしの分は買えなかった。
あたしは、お腹が空くのを我慢して、唇を噛み締め、席で静かにしていた。
「おい、清水。弁当はどうした?忘れたのか?」
「え…。」
声をかけてきたのは、あたしの隣の席の人。
———伏見くん。
「あ…うん。まあね…。」
「へぇ、珍しいな。清水はそういうとこしっかりしているように見えるのにな。」
「えへ……」
グウウウウウウウウウウ……
げっ!
盛大にお腹が鳴っちゃった…
伏見くんに気づかれたよね、これ…
「あはは…お腹空いてんだな…」
伏見くん、その表情、苦笑だよね…
「ちょっと待てよ。」
伏見くんがバックの中をガソゴソかき回す。
「ほら。やるよ。」
ポンとあたしの方に投げられたものをあたしはとっさにキャッチする。
「腹減ってんだろ?食べろよ。」
見ると、カレーパンだった。
これ……あたしの大好きなカレーパン。
自慢じゃないけど、あたしは、カレーパンにはうるさいんだ。
「これ…あたしが好きなやつ…!!」
「だろ?」
え…?
「だろ」…?
伏見くん、確信犯?
「もしかして、わざと?」
「あ………」
沈黙が訪れる。
まあ、確信犯でもそうじゃなくてもありがたいんだけどね。
「ありがと。伏見くん。」
あたしはにっこり笑って言った。
「や……かわ………」
ボンッと伏見くんが真っ赤になる。
あれれ…?どうしたのかな…?
あたし何かしちゃった?
伏見くんがごほんと咳払いをする。
「よ、喜んでもらえて何よりデス…」
何で急に敬語?
伏見くん、なんかちょっと別の意味でおかしいよ?
「亜希、行こうぜ。」
しかし、すぐに八神さんに伏見くんは連れ去られた。
放課後、あたしはちょっと残って、日誌を書いていた。
毎日先生に提出しなくてはいけない日誌をここ1週間ほど出し忘れていたのだ。
夕焼けの光の差し込む教室。
あたし一人、机に向かっていた。
しかし、すぐに静寂は破られた。
「あれぇ〜?清水愛香がいるんだけど〜?」
聖理奈の大きな声がして、教室のドアがバンと開け放たれる。
「ひっ…」
思わず声が漏れる。
「あっは、なんか、びびってやんの〜。」
5人は、一直線にあたしの机に向かって歩いてくる。
「へぇ〜?日誌?偉いじゃん!」
彩綾があたしの手から日誌を奪い取る。
「やめ…」
「ふーん。『今日は、母と遊園地に行った。久しぶりにジェットコースターに乗った。とても楽しかった。また行きたい。』あははっはは!!何コレ。マジでテキトーなんすけど〜!」
嫌だ…
「へ〜?1週間出してなかったんだ?じゃあ、明日も出せなくなったら悲しいね?」
彩綾が微笑み、数歩後ろに下がる。
ビリビリビリビリ!
日誌が真っ二つに裂かれる。
そして、全てのページを破っていく。
「な…何すんの!」
パン!!
「奈々美……」