「あはは!面白いね、みんな。」
麗華姫が近づいてくる。
自然とみんなぶーちゃんのそばから退く。
「ぶーちゃん、あたしも、ぶーちゃんを楽しませてあげる!」
そう言って麗華姫はバット——おそらく体育館倉庫の中にあったと思われる野球のバット——を振り上げる。
「ひっ…!やめっ…。」
——ガンッ!!!
麗華姫がぶーちゃんの脚にバットを振り下ろす。
「あああああああ…ああ!!!」
今までとは比べ物にならないくらい悲痛な声でぶーちゃんが叫ぶ。
いつも、いつもそうだ。
麗華姫は容赦という言葉を知らない。
イジメだろうがなんだろうが、麗華姫は容赦しない。
人が死のうが、きっと顔色ひとつ変えない。
それが——麗華姫だ。
「まだまだよ〜。」
——ガン!ガンッ!!
「いやぁぁぁぁ!!!」
泣き叫ぶぶーちゃん。
滑稽だ。
あたしは忘れずにスマホを取り出してぶーちゃんにかざす。
「あたし」は、こんなことで動じるような人じゃない。
「あたし」…はね。
「そろそろ終わりにする〜?もう、飽きたねぇ…」
麗華姫があくびをする。
ぶーちゃんは、泡を吹いて気絶している。
腕も、脚も、赤黒く腫れ上がっている。
ぶーちゃんは目を瞑ったまま浅く、速く呼吸を繰り返す。
たしかに、これ以上やるとマズいことになる。
麗華姫たちは、ゾロゾロと出て行く。
でも…。
このままぶーちゃんを置いておくのは、かわいそうだねぇ…。
あたしは、水道に行き、バケツにいっぱい水を汲んだ。
「ぶーちゃん、プレゼントだよぉ!」
——バシャーーッ!!
「ひっ…!」
ぶーちゃんがビクッとして起きる。
意識、戻ったみたいだね〜。
「んじゃ、さよなら〜。」
あたしは、体育館倉庫の扉を閉め始める。
この倉庫は、外から鍵をかけるタイプだから、ぶーちゃんは開けられないわけで。
誰かが来るまで出られないってこと!
うふふ…あぁ、面白い。
「や、やめて…!!!」
ぶーちゃんが這ってくる。
気持ち悪…!
てかさ。
「なんか、そうやって這って王様に挨拶する風習、どっかの東南アジアの国にあったよねぇ!マジウケる〜!」
ぶーちゃんは、必死にこっちに来る。
「うぜーんだよ!!!」
——ドカッ!
あたしは力一杯ぶーちゃんを蹴った。
「ぐっ…!」
ぶーちゃんはひっくり返って倒れる。
「気持ち悪いんだよ、ゴキブリの出来損ないが!!」
あたしはぶーちゃんを冷たい目で見る。
その時、大事なことに気がついた。
「あ、そうそう〜。あたし、金欠だから…、あんたのお金、貰ってくわ〜。」
「え…?」
あたしは、愛香のポケットを探って、財布を取り出す。
お、2万円入ってんじゃん。
あたしは、1万5000円を抜き取った。
「ん、さんきゅ。」
「お、お願い…!やめ…!」
まだ、何か言うの?
もう、こうなったらやってやる。
「死ねよマジで。」
——ガシャン。
あたしは扉を閉めた。
そしてカチリと鍵を閉める。
「やめて!出して!!お願い…!やめてよ…!!!!!」
泣きながら扉を叩くぶーちゃん。
うるさいうるさい。
「出してーーー!!」
「黙れよゴミっ!」
あたしは鍵を持って倉庫から遠ざかる。
ドンドンと叩いている音が徐々に聞こえなくなる。
ふん、明日の朝までそこにいろよ。
あたしはニヤリと笑って、家路についた。
——鍵を持ったまま。
「た、ただいま。」
あたしはボロい小さな木造のアパート(と言うか、共同住宅?)の玄関のドアを開けた。
もう、入居者は、うちの一家しかいないらしい。
うちは、お金がないから…。
殺風景な廊下がのびている。
…ーこの廊下を見るたびに。
この敷居に入るたびに。
吐き気に襲われる。
泣きたくなる。
怖いんだ…。
だって。
だって…。
物心ついた時から……
「おっせーんだよ何していたんだ!」
リビングから下着姿で出てくる女性。
あたしの母親だ。
「ご、ごめんなさい…。」
「とっとと夕飯作れうすのろ!!」
——バシッ
横っ面をビンタされる。
あたしの目に涙がうっすらと浮かぶ。
「………はい。」
「あ?返事が聞こえねぇんだよ!」
帰ってきた途端、ギャーギャー騒ぐ母親。
あたしには、母親しかいない。
父親は、どこに行ったのか消えてしまった。
母親は、あたしに強く当たる。
高校、麗華姫のそばの「あたし」。
ここに来ると、「あたし」は消えて行く。
そして、徐々に姿を表すのは、
「わたし」。
あたしがわたしになったら、あるいはわたしがあたしになったら、記憶が飛ぶ。
今だって…
「あたし」は、「わたし」に侵されてゆく……
——あたしは、完全にわたしになった。
「なにしてんだ?返事は!?」
え…!?
お母さん、怒ってる…。
なんで、だ?
わたしは、慌てて記憶を辿る。
う…そ…。
なにも思い出せない。
このタイミングで「わたし」になっちゃったの?
「は、はい!」
とりあえず返事をした。
「ったくよぉ…。」
やっぱり、怒っている…。
なんで?
わたしは、周囲を見回した。
左手につけた腕時計を見る。
6時…半!?
そっか、わかった。
「あたし」が遅くなったから怒っているんだ。
「ご、ごめんなさい。夕飯、すぐ作ります!」
わたしは走って部屋に入った。
歩いたりなんてしてはダメだ。
お母さんに蹴飛ばされる。
「服…服…」
わたしは、クローゼットの中をかき回す。
「わたし」が買った安いシンプルなもの。
「あたし」が買った派手なゴテゴテしたもの。
何やってんのよ、あたし。
わたしは、迷わず安っぽいTシャツと、短パンを身につけ、キッチンに急ぐ。
「げっ…、カレールーがないっ…。」
わたしはびっくりした。
そうか…「あたし」の時は買い物なんか行かないから、カレールーもないのか…。
しょうがなく、わたしは予定を変更して、肉じゃがを作る。
もう…、憎んでも憎みきれないよ、「あたし」。
「おい、まだかよ!?」
リビングからは母が怒鳴る。
わたしは縮み上がって料理を作り続ける。
「で、出来ました…。」
わたしは、急いで盛り付け、テーブルに運んだ。
「………。」
お母さんはいただきますも言わないまま、無言で食べ始める。
わたしは、テーブルの反対側に座り、自分用の夕飯を食べる。
「柑奈。」
「は、はい!」
不覚にも肩がビクンと跳ねる。
なにを言われるか、恐怖で足が震える。
わたしは、箸を置いて身構えた。
「あんた、期末考査はどうだったの?」
ど、どうしよう……。
目の前が真っ暗になった。
期末考査…とっくに終わって個票や順位も返ってきてる……。
それについては、お母さんになにも言っていない。
怖いから。
「あ、あの…まだ、成績は返ってきていなくて…」
わたしは、咄嗟に誤魔化した。
ちょっとでも、嘘をついて、誤魔化せる期間を延ばしたい。
お母さんはすぐに口を開いた。
「は?あんたの友達のお母さんは、もう返ってきたって言ってたよ?」
あ…。
終わった。
「あ…あの…。」
「嘘つきだなテメェは!!この前嘘ついて怒られたばかりじゃん!なに?そんなに嘘つくのが楽しい?」
ちがう。
そうじゃないんだ。
わたしが、嘘をつくのは、保身のため。
自らの身体を守るためなんだ…。
「ご、ごめんなさ…い…。」
「謝ったって許されねぇよ!!」
——バチンッ!
「っ……、」
叩かれた。
顔を叩かれた。
わたしは、嘘をつかないで殴られるより、嘘をついて、たとえ嘘つきになっても、自分の身を守りたい。
でも、そこには大きなリスクがある。
もしも、嘘をついていることがバレたら、もっと酷い目に遭う。
それに、嘘をついていることがバレるのが多くなればなるほど、本当のことを言っても信用してもらえなくなる。
「なんなんだ、お前は!!いつもいつも嘘つきやがって!!小学生の時からそうだったよね?友達に嘘ついてさ!」
っ…。
そう、わたしは、昔から嘘をついている。
うちの親が普通じゃないと気づいてから、わたしは、偽の自分を装うようになった。
嘘で塗り固めて、偽の自分を作った。
いつだったか…。
友達に、「アメリカのディズニーランドに行ったことがある。」って言ったっけ。
自分は、親に殴られて恐怖で震えているような人じゃない。
もっと、人の上に立つような人なんだ。
わたしは、嘘に嘘を重ねて、別の自分を作った。
それで、友達も失ったっけ。
小学生の頃に仲が良かった、亜捺ちゃん。
わたしの嘘が親にバレて、わたしの嘘が原因で、親同士が仲が悪くなり。
わたしたちは話をしなくなった。
わたしは、クラスから孤立していた。
嘘に嘘を重ねたせいで、矛盾が生まれ、信用を失った。
友達を失った。
だから、中学に入って、知っている人がいなくなった時、わたしは、新しく嘘を作り始めた。
中学からはメイクもして、外見まで、嘘をついた。
矛盾が生まれないように、慎重に嘘を重ねて行く。
いつしか、麗華姫と出会って、嘘は加速した。
麗華姫に見放されることが、怖くて。
「わたし」は、全く違う自分、「あたし」を完成させた。
そう、学校の「白波柑奈」と、家での「白波柑奈」は。
———別人なんだ。
「おい、聞いてんのかよ!」
———ガンッ!
いった…。
すねを蹴られる。
「だ、出します…。」
わたしは、覚悟して、答案用紙と、個票を出した。
お母さんは、無言で個票を見つめる。
「は?クラス3位?ふざけんな。」
お母さんは、個票を破った。
成績上位者は、掲示される。
一位は、八神夜風。
二位は、白神麗華。
三位が、わたしということ。
「成績下がってんじゃねーかよ!」
胸元を掴まれる。
だって、だって。
八神さん?って人…「わたし」は会ったことがないけど…
が、すごく頭がいいみたいなんだ。
「わたし」が聞くには、すごく頭がいい高校から転校してきたらしい。
「っ…、ごめんなさい…。次からは…。」
「いっつもいっつも聞いてるんだよそんなことは!!!」
お母さんに怒鳴られて、胸の底がえぐられるような感覚がする。
「いつになったら治るんだよ、その嘘つく癖は!!!」
何度も殴られる。
泣きたくなった。
でも、泣けば、「嘘泣きするな」と言われて終わりだ。
だから、全力で涙を堪えた。
わたしが小さい頃からお母さんは理不尽で、暴力的で、毒親で。
わたしも自覚していた。
だけど、相談なんか出来なくて。