饕餮が結界を抜け出し、宮廷に向かっていることは、すぐに城内に知れ渡った。

周知徹底された命令は、とにかく動かないこと。

 禁軍は万一のために配備されているが、戦うためではない。

饕餮を見たら、速やかに皆を避難させろと言われている。

 後宮内も不気味な静けさが漂っていた。

禁軍が後宮の外を守ってくれているとはいえ、饕餮が後宮内に入ってきたらと思っているのか、怖くて震えあがり、女たちのすすり泣く声が聞こえた。

 雪蓉は劉赫を信じ、後宮で待つことを選んだ。

宮廷内にいる、一番の弱者は後宮の女たちだ。

だから、彼女たちを守るため後宮にいることが、雪蓉の唯一できることだった。

 饕餮が近寄ってくる気配を感じる。饕餮はもうすぐそこまで来ていた。

(劉赫……お願いよ)

 祈りながら、気配を消して、ただじっと待つ。

 饕餮が来る方向には、饕餮の大好物の鶏の生き血をたらし、劉赫の待つ大廟堂に進むようにしている。

大廟堂の中に入りさえすれば、劉赫は神龍を放てる。

 それまでに一人の犠牲もなく、饕餮が大廟堂に入ることができれば作戦は大成功となる。

 逆にいえば、饕餮が宮廷内で暴れまくり、やむなく神龍を外に放てば、被害は甚大なものとなる。

 神龍が饕餮だけを襲ってくれればいいが、宝玉を手にした神龍は我を忘れて暴れ狂う。

儀式の時に、三人の皇子を殺したように、人間に襲い掛かる可能性は非常に高い。

 そうなれば、被害は饕餮一匹が宮廷に入り込んだものよりもさらに大きくなる。

 このまま何事もなく饕餮が大廟堂に入ってくれることを、ただただ祈るのみだった。

(きた……。饕餮が宮城内に入ったわ)

 饕餮は、鶏の生き血を嗅ぎ、真っ直ぐに大廟堂に向かっている。

(そう、いい子よ。そのまま進みなさい)

 雪蓉は、まるでその様子を見ているかのように感じ取ることができた。

 大廟堂に入りさえすれば……。

雪蓉は手に汗をかきながら祈り続けた。

 饕餮は夢中になって生き血を舐めながら、ゆっくりと進んでいく。

 雪蓉が成功の手応えを感じ始めたその時だった。

 静寂に包まれていた宮廷内が、突如、怒号や剣の打ち合いの音が響き渡る。

(何事⁉)