しかし結局、桜良に遭遇することなく
会社に着く。

専務室に入ってパソコンを開き
社内メールを確認していると
コンコンとドアがノックされた。

俺はパソコンに目を落としたまま
「どうぞ」と一言呟いた。

「失礼します」と入ってきたのは
秘書の松谷萌花(まつたにもえか)だった。

松谷はブランドのスーツに
毛先はふんわり柔らかく巻いて、
メイクもネイルも流行を取り入れている。

そういう女が好みだという男は多いが
俺は素朴で何色にも染まっていない桜良の方に惹かれてしまうのだ。

「専務、おはようございます。
さきほど、今週のスケジュールをメールで
送ったのですが目は通して頂けましたか?」

松谷は作ったような笑顔で俺に問い掛ける。


「ああ、問題ない」


秘書だというのに少し甘ったるい喋り方が
俺は苦手だったりする。
秘書課の男性社員に媚を売って仕事をちゃっかり押し付けたりしていることや、新人の女性秘書には冷たい態度を取っていることも長年勤めていれば嫌でも耳に入る。
何度かそれとなく注意したのだが、知らぬ存ぜぬで最終的には泣いて誤魔化して彼女の態度が改まることはない。

逆に桜良は松谷みたいなずる賢い同僚に仕事を押し付けられるタイプだ。まあ、それでよく一人で残業していてくれたお陰でふたりきりになる機会ができたのだけど。
しかも桜良は新入社員の子にさえ、腰が低い。
だけど、新しく入ってきた子達にも優しく指導するし、仕事も真面目で丁寧なので新入社員や直属の上司の評判は良いのだ。

「それではこのスケジュールで進めさせていただきますね。」

松谷は俺の素っ気ない態度にも
笑顔で返すと「それでは失礼します」
と頭を下げてドアノブに手をかけた。

「あ、いや、ちょっと待て。」
 
しかし、俺はふと閃いて
咄嗟に松谷を呼び止めた。