ある山深いところに、小さな寺がございました。そこには、和尚さんが一人で住んでおりました。
ある日、和尚さんが筆を片手に、一句詠んでいると、どこからともなく一匹の子狐がやって来ました。
「おうおう、これはめんこいの。さあさあ、こっちにおいで」
「コン」
子狐は一声鳴くと、そばに来ました。
「どうしたんじゃ? 迷子になったのかな?」
「コン」
「そうかそうか。母さんが迎えに来るまで、ここで遊びなされ。どれどれ、何か食べ物を持ってきてあげよう」
和尚さんは庫裏に行くと、おにぎりを持ってきました。子狐は庭先で、オスワリをして待っておりました。
「ほれほれ、食べなされ」
和尚さんが縁側に置くと、子狐は急いでやって来て、爪先立つと、おにぎりにかぶりつきました。
「よっぽど、おなかが空いておったんじゃな。いっぱい食べなされ」
子狐はペロッと食べてしまうと、円らな瞳で和尚さんを見上げました。それはまるで、お礼を言ってるかのように和尚さんには見えました。
「おなかいっぱいになったかな?」
「コン」
子狐は返事をすると、庭先に咲き乱れた芍薬の花たちと戯れ始めました。
「おうおう、元気がよいのう。ハハハ……」
子狐はピョンと跳んでは、芍薬の花に鼻先をくっつけて遊んでおりました。子狐は飽くことなく遊びつづけ、夕日が沈むころになっても帰りません。
「これこれ、はやく帰らぬと、母さんが心配するぞ」
和尚さんがそう言うと、子狐は哀しそうな顔を向けました。その目には涙が溢れておりました。
「……どうしたんじゃ? なにがあったんじゃ?」
和尚さんが尋ねると、
「……コン」
と、弱く鳴きました。
和尚さんは、親にはぐれたのじゃろうと思い、
「……じゃ、今夜は泊まっていくとよい。明日、夜が明けたら一緒に探しに行こう」
と言うと、子狐は、
「コン」
と鳴き、喜んでいるようでした。
翌朝、目を覚ました和尚さんが縁側の障子を開けると、子狐がオスワリをして待っておりました。
「おう、もう起きておったんか? おなかが空いてるじゃろ? どれどれ、ごはんを持ってきてあげような」
「コン」
子狐は和尚さんにもらったおにぎりをペロッと食べると、円らな瞳で見つめました。
「おなかいっぱいになったかな? それじゃ、母さんを探しに行こう」
そう言って腰を上げました。
「コン」
杖を持った和尚さんは、子狐の後をついて行きました。
すると、山のふもとに立った一本のブナの根元で母親らしき痩せた狐が死んでおりました。
「……かわいそうにな。……食べるものがなかったのじゃろ」
和尚さんが手を合わせていると、
「……クン、クン」
と、子狐が哀しい声で鳴きました。
和尚さんは母狐を抱き抱えると、寺に戻り、庭に埋めてやりました。
そして、母親を亡くした子狐を不憫に思った和尚さんは、子狐を飼うことにしました。
子狐との、それからの毎日は、それはそれは、楽しい時間でありました。
我が子のようでもあり、孫のようでもありました。
「これこれ、いたずらな子じゃ。洗濯物をくわえたら、また汚れるじゃろ? 悪い子じゃの。ハハハ……」
そんなある日のこと。和尚さんが突然倒れました。
子狐は、
「……クン、クン……」
と鳴くと、和尚さんの体を鼻先で押しました。それはまるで、早く起きて、と催促しているかのようでした。
しかし、和尚さんは、うんともすんとも言いません。
すると、子狐は走って、どこかに行ってしまいました。――
「和尚さん、大丈夫かや?」
その声に、和尚さんが目を覚ましました。
そこにいたのは、駐在所のお巡りさんでした。
「……どうしたんじゃ?」
そう呟きながら、和尚さんはゆっくりと体を起こしました。
「どうもこうも、四、五才の男の子が、おしょうさんがおしょうさんが、と言って泣いてたもんでな。こうやって来てみたんじゃ。何事もなくてよかった」
「……四、五才の男の子? ……はて、誰じゃろ? ……それより、子狐を見らんかったかの?」
和尚さんはそう尋ねて、辺りをキョロキョロと見回しました。
「……子狐? 子狐がどうしたんじゃ?」
「母狐を亡くしての、不憫じゃったから、飼っておったんじゃ」
「さあ、……見とらんな」
「……どこに行ったんじゃろ」
和尚さんは顔を曇らせました。
夜になっても、子狐は帰って来ませんでした。
「……どこに行ったんじゃろ。……ひもじい思いをしておらんじゃろか。……あっ!」
と、その時です。和尚さんはふと、ある言い伝えを思い出しました。
それは、狐は一度人間に化けると、死んでしまうという迷信でした。不吉な予感が、和尚さんの脳裏を掠めました。
「巡査が言っておった男の子とは、もしかして……」
和尚さんは大急ぎで、生い茂る芍薬の葉っぱを掻き分けました。
すると、案の定、子狐が死んでおりました。
それは丁度、母狐を埋めた場所でした。
「……すまなかったの。……わしのために、人間になって助けてくれたんじゃの」
和尚さんは、泣きながら手を合わせました。
そして、母狐と一緒の墓に埋めてやりました。――
――それからというもの、狐の親子を埋めたその場所の芍薬は、毎年のように、それはそれは、目にも鮮やかな美しい花を咲かせるそうじゃ。――
のちに、その寺は、『芍薬の寺』として、知られるようになったそうな。
おわり