「いえ、こちらの話ですからどうぞお気に
なさらず」

 「はあ」

 「それはそうと、そろそろ戻らないと古都
里さんの順番が来るのではないですか?蒼穹
のひばりは終曲ですが、わたしが下りてくる
時に、その前の曲が始まってましたから」

 「あっ、いっけない!」

 古都里は盆を手にオロオロし始める。
 飛炎の言う通り、二階から漏れ聴こえてい
た箏の音は止み、きっと最後の曲の準備が始
まっているに違いない。あわあわと、慌てて
キッチンに盆を運ぼうとした古都里を飛炎が
引き留める。

 「これはわたしが片付けておきますよ」

 「すみません、いいですか?」

 「お安い御用です。どうぞ二階へ」

 「ありがとうございます!」

 手にしていた盆を飛炎に渡すと、古都里は
ぺこりと頭を下げ、階段を駆け上ってゆく。

 その背を見上げる飛炎の眼差しが、存外に
深く、懐古の情が滲んでいたことに古都里が
気付くことはなかった。








 「あれっ、ない。何でないんだろう??」


――翌朝。


 朝食の後片付けを終え、箏の練習をしよう
と自室に戻ってみると、オーバーオールのポ
ケットに仕舞っていたはずの箏爪ケースが無
くなっていた。

 「おっかしいなぁ。絶対、ここに入れてお
いたはずなのに」

 バクバクと早鐘を打ち鳴らし始めた胸に手
をあて、古都里は顔を顰める。大勢のお弟子
さんが入り乱れる中で、無くしてはいけない
と思いオーバーオールの尻のポケットに入れ
ておいたのだけど。いま、ポケットに手を突
っ込んでみれば、そこには何もなかった。

 「どうしよう。先生に買ってもらった大事
な物なのに……」

 朧げな記憶を辿りながら、落ちていそうな
場所を探してみる。服がはみ出したボストン
バッグの中、箪笥の引き出しの中とその隙間。

 さらには、廊下の隅々からトイレのスリッ
パの中まで歩いて探し回る。けれど目を皿の
ようにして探してみても、白地に小花が散り
ばめられた、錦織の小物入れは見当たらない。

 いよいよ泣きそうになりながらあるはずの
ない居間のゴミ箱の中を漁っていると、不意
に背後から声がした。

 「探し物ですか?古都里さん」

 その声に振り返れば、狐月が詰め替え用の
洗濯洗剤のパッケージを手にきょとんとして
いる。きっと中身を補充してきたところなの
だろう。しわしわになったそれは、捻じられ、
丸まっていた。古都里は狐月の姿にくしゃり
と顔を歪めると、「どうしよう」と呟いた。

 「実はね、先生に買ってもらった箏爪が見
当たらなくって」

 「箏爪ですか?確か、白い花柄のケースに
入れてましたよね?」

 「そう。昨日の夜までは確かに、お尻のポ
ケットに入ってたはずなのに」

 言って項垂れると、狐月が小首を傾げる。

 「寝巻に着替える時に落ちてしまったので
しょうか。あ、でも、脱衣所にそれらしき物
はありませんでしたねぇ」

 狐月の言葉にはっとして顔を上げた古都里
は、瞬時に可能性を否定され、がくりとまた
垂れる。