美しい景色だった。空はまだ青く、いつかとまったく同じなんてことはないのだろうけれども、さして特別に感じるわけでもない調子で、雲が気ままに泳いでいる。

 その何気ない景色が、空の青が、この上なく美しく、愛おしい。

 朝とも昼とも違う、夕刻の独特な青空だ。沈んでいく太陽、その炎の熱とにおいを近くに感じている、橙に染められる前の青。

 遠くの空に、薄く月が浮かんでいるのが見えた。近いうちに新月となる、細い月。

 俺が画材を広げるのを、はなが横目に見た。しなやかな指が絵筆を置く。そして「水月がどんな絵を描くのか、すごく興味がある」と、肌に触れればあたたかそうな声がいった。

 『大したものじゃない』という声が口の中に湧いてきた。けれどその通りに舌を動かしはしなかった。そうしてしまえば、それが事実以外のなんでもないようになってしまうように思えた。今までのそれは塗り替えられても、今ここでさらに色を重ねてしまえば、もう変えられないように思われた。

 「それはそれはもう、美しいものだよ」

 いいながら、緊張が心地よく自分を興奮させるのを感じる。

 「天才が目を醒ましたんだ」——きみが関心を持ってくれた愚かな天才が——。「この才、(しか)と見ておれ」

 自分を鼓舞するのとふざけるのと、半分ずつくらいな気持ちでそういうと、はなは「我、活眼(かつがん)開きたり」とのっかってくれた。

 パレットの上で絵具を水に溶きながら、喉の奥が重く熱く、苦しくなった。俺は今、あまりに満ち足りている。それは貧しい胸の奥には抱えきれず、視界を滲ませる。

 見れば、はなは愛らしく、美しく、微笑んだ。

 「気張らずに描いて。水月の絵(、、、、)が見たいの」

 胸の奥を、恐ろしい霊魂のように燻り支配していた醜い欲望が、吐いた息に絡むような心地がした。頭の中が澄んでいく。残酷なほど冷静になっていく。

 ああ、俺はどうしようもなく人を求めていた……!

 なにも孤独だったわけじゃない。両親とも仲がよく、かわいい弟で親しい友達のような葉月がいる。

 でも俺は、どうしようもなく存在したかった。
 ただ誰かに認められたくてしょうがなかった。

 俺はもうどうしようもない悪人かもしれない。

 俺は葉月が好きだ。弟として、家族として、友達として大切だ。

 紛れもない事実のはずだった。けれども今、俺はそれを疑っている。

 俺にとって彼は、本当にかわいい弟だろうか。本当に、大切な家族だろうか。尊い友達だろうか。

 本当に、そんな清らかなものだろうか。俺の葉月への恩愛は、もっと穢れた、厭わしいものではないだろうか。

 俺は葉月の存在を喜ぶより、葉月の胸の奥にあるものを尊ぶより以上に、葉月に求めていたのではないだろうか。

 なにを。
 慰みを。

 俺は、葉月が俺を尊んでくれるから愛しているのではないだろうか。
 自分の代わりに醜い欲求を隠してくれるのがかわいいのではないか。

 認めたくはない。どれも本物だった。

 葉月が笑えば至上の喜びに触れ、葉月が泣けばこの上ない痛みと苦しみを味わった。あれほどの喜びを、痛みを苦しみを、俺はほかに知らない。

 俺は確かに紛れもなく、葉月の兄だった。俺と葉月の間には、どこにでもある、常に美しい、時に悍ましく攻撃的な恩愛の絆があった。なににも侵せない、凪いだ荒野(こうや)のような聖域だった。その荒々しく高潔な絆を、俺はなにを()しても守るつもりだった。

兄として、葉月の世界の泰平を守ると誓った。神さまでも仏さまでもない、俺にとってそれよりずっと力があって、誓いを破ったときに残酷な罰を与えられる俺自身に、誓った。あの夜布団の中で、責任感の重くかたい腕に抱かれ、誓った。

 その孤独な静かな誓いが穢れていたというのだから、どうしようもない。

 あの日夜闇(やあん)の中で俺を抱いていたのは、責任感なんて立派なものではなかったのかもしれない。

葉月を二度と泣かせない、一人にしないと、兄だからといって誓ったのは、俺の中にあるなけなしの責任感だったのだ。

反対に、俺を抱いていたあの重くかたい腕は、知らずに俺を支配していた醜い欲求のものだった。

 葉月は唯一おまえを認めてくれるかわいい子だよと囁く悪魔のような欲求に抱かれ、無知で無邪気な責任感は、俺は兄だから、二度と葉月を一人にはしないと誓った。