恩愛橋を渡って土手に入り、しばらく進んだところに、彼女はいた。大きく愛らしくもきりりとした目の奥に静謐(せいひつ)な熱をまとい、ただ美しく、カンヴァスを見つめている。

 絵筆の先がそっとカンヴァスを離れ、その熱っぽい静かな目がこちらを向いた。途端、その大人びた雰囲気は溶けて、「水月!」と無邪気にかわいらしく笑う。

 「きてくれたんだね」というはなの隣に、荷物を置いて腰をおろす。

 「画展っていっても、どうやって開くの?」

 「寝癖は整えてきたんだね」と彼女はいった。

 「この誰より生意気なミズハナトキモトが、他人さまを誘っておいてノープランだなんてね、そんなはずはないのだよ」

 「心強いもんだね」

 彼女はすらりとした人差し指を自身の唇に当てた。魅惑の声が「わたしにはコネクションがあるの」と口角を持ちあげる。「そんじょそこらのコネとは違うよ」

 「というと?」

 「お母さんのお姉ちゃん——わたしからすれば伯母さんだね——その人の、大学の頃の先輩だったかな……まあお母さんのちょっとした知り合いだね。そんな人が画廊をやってるみたいなの。その人に頼んでやらせてもらえばいいやと思って」

 「はなはその人と会ったことあるの?」

 「いや、ないよ。でもほら、お母さんを通せばどうにかなるよ。お母さんがだめなら伯母さんもいるし。それでもだめなら、最終手段として、わたしの知り合いのおいちゃんを当たってみる」

 「オイちゃん?」

 「人の名前じゃなくて」とはなは噴きだすように笑った。「おじちゃんって意味のおいちゃんだよ」と教えてくれた。

 「画材屋さん」とはなは静かにいった。美しい指先で、愛おしむようにカンヴァスを撫でる。「わたしが初めて画材を買ったお店のおじちゃん。若い頃は自分も描いてたみたいなんだけど、諦めちゃったんだって」

 しんみりといってから、彼女は「ばかでしょ」と笑った。

 「なんだって諦めちゃうかね。本人は今の生活に満足してるみたいだから別に口だしはしないけどさ、やっぱりもったいないよね。せっかく描きたいって思ったのに」

 「……はなは、描くのが嫌になることはないの?」

 「ないよ」と一切の迷いなく返ってきた。

 「絶望したことないの?」

 「ないよ。だって悔しいじゃん。諦めるのって死ぬことでしょ、まだ百年は死にたくないよ、わたし」

 「はなもコンテストにだしたりしてたの?」

 「ないよ」となんでもないように返ってきて、思わず笑いそうになったのを必死に飲みこむ。

 「だって今までは画家になろうなんて思ってなかったもん。でも時がきて——」

 彼女はすぼめた指先を上に向けてぱっと広げた。

 「()が咲いた。わたしは画家になるって決めた。だから画展を開く。ずっと絵を描いていたいの。絵を描いておいしいものを食べて、そうやって暮らしたいの。

周りの人には、情熱でも甘えだの怠けでも、思い思いにいってもらえればいい。ただひとつ確かなのは、わたしがこの欲望を満たして生きていくこと。自分の望む形で、この欲を満たして生きていく。

誰かのいうことさえ聞いていれば一生絵を描いておいしいものを食べて暮らせるっていわれても断る。それしか方法がないっていわれても。絶対にその人に従わないで望みを叶える」

 かわいい顔で魅惑的な声が語る内容にくらくらする。怖いほど気が強い。いう人にいわせれば、頑固とか自分勝手なんて言葉さえでてきそうだ。

 はなは大きな目で見上げるように顔を覗きこんでくる。「わたしとは気、合わない?」

 俺は黙ったままかぶりを振った。今までにないほど胸が高鳴っている。体の奥が震えるような、ぞくぞくする恐怖にも好奇心にも似たこの熱い激情は、情熱というよりも興奮という方がふさわしいように思う。

 いや、違うか。

 これは情熱でも興奮でもなく、あくまで、恐怖に似た、あるいは恐怖を孕んだ、震えるほど激しい好奇心だ。

彼女の奥に見えるものに、彼女の向こうに見えるものに対する激しい好奇心、今すぐにでもそれに触れられなくては気が狂ってしまいそうなほどの衝動。

 ああ、俺は——。

 「俺は……」

 どうしようもなく——。

 「はなに、……ついていきたい」

 はなは挑発的に笑って何度か大きくうなずいた。

 「わたしも水月も、こんなところで燻っていられるような大人しい子じゃないよね」