放課後は無事に家まで辿り着き、鍵を開けて玄関を入った。母が居間からでてきて、「おかえり」と迎えてくれる。「無事でよかったよ」と。

 挨拶もそこそこに、俺は「葉月はまだ帰ってない?」と尋ねる。

 「今日は部活があるそうだったからね」

 「そうか」とうなずいて、敷台に鞄を置いた。代わりに、家をでる前にそこへ置いた画材を手に持つ。「ちょっとでかけてくる」というと、母は「気をつけてね」という。

 「楽しんでいらっしゃい」という母に、「ああ、思いきり」とうなずく。母はちょっと困ったように笑った。気楽に楽しみなさいということだったのだろうけれど、もうそのようなことはできなくなっている。

スポーツ、芸術、学問、それ以外も、これだと思ってしまえばそれが世界のすべてになる。そして世界は、頂に近づけば近づくほど愉快で、やがて頂に辿り着けば、この上ない快楽を味わえる。

 俺はその、たまらないほどの快楽を喰らいにいく。魅惑のはなと一緒に喰らいにいく。

 画展も、俺たちの場合は素人によるものだ、売れないならそれでいい。嘲笑のひとつとして糧にしてやる。

 そしていつか、栄光をこの手にできたなら——。

 葉月のくれる“本物”の称号を、恥じずに受けとれる。葉月の期待に応えられる。

 葉月に、ちょっとは格好のついたところを見せられる。いや、それはもう諦めるべきか。驚くに値しない結果に絶望し、世の中を見るのを拒み、格好のついたところを見せようなんて思っている葉月自身に、手引きなんかをやらせた。

 そんな俺が栄光を手にしたとして、かわいい弟は喜んでくれるだろうか。いや、邪気のない純粋な弟は、俺に少しの痛みを与えて、喜んでくれるかもしれない。その痛みを知らないで、喜んでくれるかもしれない。

 喜んでくれたらいい。どんなふうでも、ただ葉月が喜んでくれたらいい。

 俺を“本物”と呼んだことを、悔いないでくれたらいい。

 ふっと湧いた迷子のような心細さを飲みこんで、俺は玄関の戸に手をかけた。大丈夫、俺には目的がある。理由がある。

 「水月」と声がして振り返ると、母は静かにうなずき、「あなたは特別な人です」と悲しげにいった。胸の奥に火が灯ったような心地がした。醜いばかりの欲望が、あたたかいものに包まれ、じんわりと溶けていくような心地がした。

 俺は胸の奥の震えを息にして吐きだし「知ってる」と笑い返した。

 戸を開いた音に、「ごめんなさい」と母のかすかな声が混ざった。