陽が傾いた頃、戻ってきた弟の名前を呼ぶと、彼は無邪気に手を振ってきた。

 葉月が近づいてきた頃に、はなは俺に向かって「誰、あの人?」と本人に聞こえるようにいった。

 「まさか葉月なんて人じゃないだろうし……わたしの知ってる葉月って人はね、すっごい感じ悪いの。おまえが気に入らない、おまえが気に入らないーってずーっといってくるの」

 葉月ははなを「時本」と呼ぶと、その小さな体を抱きしめた。ヒューゥ、口笛を吹いてみても、どちらからも反応はなかった。

 「ありがとう」という葉月の声が聞こえた。

 「わたしはなにもしてないよ」とはなはいった。そうしてかわいらしく噛みついて、「さっさと放してちょうだいと願うほかには」と毒を注ぎこむ。

 葉月はすっかりその毒に耐性があるようで、「ああそうかよ」といって離れた。「悍ましい魔女め」という口元は笑っている。目には俺のよく見知った、幼い子供のような純粋な光が宿っている。

 もう葉月の、あんな笛の音は聞かなくていいのだと思うと、なんともいえず視界が滲みそうになる。唇を噛んでみると目元がじんわりとして、愛おしい弟のダムの決壊した音が耳の奥に蘇り、頬を体温が伝った。慌てて拭う。

 「ちょっとばか、なにすんのよ」とはなの声がして見てみると、彼女は乱れた黒髪を整えようと慌ただしく手櫛を通していた。

 「俺はおまえが気に入らない」

 「わたしだってあんたなんか嫌いですうー」

 「おまえは髪を染めた方がいい」

 「はあ?」

 「おまえの黒髪はにおう」といって、葉月は顔をしかめた。「ばかみたいな虫けらがどんどん寄ってくる」と手をひらひらさせる。

「髪を染めたらついでに化粧もするといい。その生っ白い蝋人形みたいな顔はその漆みたいな黒髪との対比がでかすぎる。その血色の悪い唇もどうにかした方がいい」

 俺は葉月のはなへの惚れぶりに笑いそうになる。「わたしはあんたのお気に入りになるために生きてるんじゃないんですうー」というはなが、葉月の言葉の真意に気づいているかはわからないけれど。

 「俺の善意がなぜわからない。髪を染め、化粧をすれば普通の人間らしく過ごせるっていってるんだ」

 「わたしは自由に生きたいの。誰の指図にも従いたくない。息苦しいったらないじゃない、そんなの」

 「それならそれでもいい、おまえが虫けらどもを、斬新なアクセサリーのようにぶんぶんいわせながら自分の周りに飛び回らせたいってんなら止めはしない。ただその姿で俺の視界に入るな、あんまりに不快だ」

 「そういうあんたも、今一度大きな鏡で自分を見てみることね。いや、愚かなあんたが自分の醜さに気づかず、自分の姿に酔ってしまっては困るから、鏡では自分の周りを確認することね」

 「なにがいいたい」

 「今一度自分の周りを見てみなさいって、そのままだけど。わたしみたいにあんたを心底気に入らないと思ってる人がいれば、そうじゃない人だっているわけ。もう、いいんじゃないの。恋したって」

 「魔女ってのは呪いをかけることしかできないのか?」と葉月は静かに笑った。

 「なに?」

 「古傷だって傷なんだよ」という葉月の言葉を、はなは理解できないようだった。「虫さんの言葉は理解できないわね」という言葉があまりに皮肉で、俺も苦笑するしかない。

はなは葉月をハナムグリと呼んでいたから、その愛称から派生した虫さん(、、、)なのだろうけれど。