葉月に手を握られ、それを合図に足を止める。「水月」と魅惑の声がした。

 「やあ時本」と悪癖の滲んだ葉月の声が応える。

 「おえ、ハナムグリ」と美声がしかめ面をする。

 「見ろ、本物のおでましだ」

 はなは「ご苦労さま」と、その美声にたっぷりと嫌味な響きを含ませた。少しも絞らないものだからぽたぽたと滴っている。

 手に伝わる合図に歩を進め、合図の通りに止まって腰をおろす。

 葉月は一歩進んで、しばらくそこに留まってから歩いていった。直前、はなが笑ったような気配があった。

 目を開き、真ん中を除いて暗いのを確認する。心なしか、今までよりちょっと、真ん中の円が大きいように感じる。

 「なにを描いてるの?」

 「こっち側、すぐ下にさ、木が並んでるでしょう。そこに小さな鳥がいたの。すぐに飛んでいっちゃったんだけど、上から見た木の枝に小鳥が止まってるのを描いてる」

 円形にぽっかりと広がる景色に、はなの広げているカンヴァスを持ってくる。確かに、無数の梢に茂る葉の中に小鳥がいるように見える。

 「綺麗」と声がでて、はなのまとう気配が変わった。「ちょっと調子がいいんだ」と答える。

 早く、この絵の全体が見たい。——はなに会いたい。

 「水月は、まだ絵、好き?」

 「大好きだ。今も描きたくてうずうずしてる」

 不意に体に衝撃を感じて、なにかと思えば「よかった」と魅惑の声がすぐそばに聞こえた。体に絡むものに手を触れてみると、やわらかくあたたかい肌に当たった。かっと顔が熱くなるようで手を離したくなるけれど、なんとなく格好が悪い気がしてそのままにしてみる。

 「よかった、よかった……!」

 「はな……」

 勢いよく彼女の体が離れ、細い腕に触れていた俺の手はさらりと落ちた。かと思えば、両肩を強く掴まれた。狭い視界では、肌色の白い、愛らしく美しい顔立ちの少女がこちらを覗きこんでいる。真っ直ぐにこちらを覗く目は、まるで人形のように大きい。とても、かわいらしい。

 「早く、早く起きなさい、愚かな天才!」

 そのぞくぞくするほど美しい声は、人を魅了する力は持っていても、愚かな天才の視界を広げる魔法はかかっていない。この目は、ただ逃げたくなるほど、目を逸らしたくなるほど真っ直ぐに、その美しさと視線を重ねる。

意識を逸らせるような立ち木も、誰かが塗った青か、あるいは光が散乱した結果の青か、とにかく青色の空も見えない。魅惑的な彼女の、あまりに真っ直ぐな目しか、狭い視界にはない。

 「わたしが、とびきり楽しいところに連れていってあげる」

 「楽しいところ……?」

 「誰にも否定させない、水月の魅力がわかる賢い人しか評価しない、楽園」

 「どこ……?」

 「わたしと水月で、画展を開こうよ」

 「そんな……ばかな……」

 「水月も同じようだよ」と彼女はかわいらしく鋭いことをいった。ふっと放された肩がちょっと痛い。

 「せっかく生まれたんだよ、せっかく生きてるんだからさ、思いきりはっちゃけないと損じゃない。素人が画展を開いちゃいけない? 素人がでしゃばっちゃいけない?」

 ふん、と彼女は笑った。

 「そんなこという人がいたら、ばかはその人の方だね。素人が玄人になるんだよ。でしゃばり尽くした素人が、はっちゃけ散らかした素人が玄人になるの。ありったけの失笑と嘲笑を誘って掻っ攫って、それに充実と喜びを見いだすぶっ飛んだ素人が玄人になるの」

 はなは言葉を切って、ぞっとするほど美しく、かすかな狂気を孕んだ笑みを浮かべた。

 「それがわたし。水月は?」

 はなとはどれだけ話しただろう。どんなに深く自分のことを打ち明けただろう。花車水月の愚かさ、愚かな天才の愚かさ、その深さを、彼女は理解している。

 腹の奥からむらむらと、あまりに激しい、あまりに醜い欲望が湧きあがる。欲望にむかむかするような腹を、着物の上から掴む。

 「こいつが欲しがんなら、一つ残らず掻っ攫ってやるよ。失笑も嘲笑も、その果ての栄辱も」

 はなは何度か大きくうなずいた。

 「おはよう、本物。よく寝たね」といわれて初めて、懐かしい視界に気がついた。地面が抜けたようだった。胸の奥が震えた。恋の産声を、あまりにはっきりと聞いた。

 「ああ……おはよう。ショータイムは何時間後かね?」

 「ばかいうんじゃないよ、もうすぐフィナーレでしてよ?」

 彼女は大きな目を濡らして、大輪の花が咲くように笑った。

 「ほら、さっさとその寝癖をどうにかしなさいな」