わたしは画材の手入れをしながら、窓の外を見た。よく晴れた青い空を、小さな鳥が悠悠と泳いでいる。しばらく動きを目で追っていたけれど、小鳥は見えないところへいってしまった。

 手元の画材に目を落とす。お腹の奥の方から、ぞくぞくするような、うずうずするような衝動が湧きあがってくる。ああ、そうか、と改めて理解する。

 わたしはもう、戻れない——。

 我慢ができなくなっている。水月たちの話を聞いてから、今までよりずっと感情的になっている。

 わたしは画家になりたい。
 ずっと絵を描いていたい。

 もっと綺麗なものを探したい。
 もっと綺麗なものを描きたい。
 もっと綺麗な色を見てみたい。

 わたしはもっと、もっともっと、美しいものを自分のものにしたい。

 わたしは手入れを済ませた画材をさっさとまとめ、財布の入ったトートバッグを引っ掴んで部屋をでた。階段を駆けおり、廊下を走りながらリビングに「ちょっといってくる」と声をかけ、玄関のスニーカーに足を突っこむ。

 アーチ状にした何本かの細いパイプをブルーシートで覆っただけの自転車置き場から自分の一台を引っ張りだして飛びのり、重たいペダルをぐいっと踏みこんだ。

 偉そうに、お店のすぐ前に自転車をとめた。

 戸を開くと、「いらっしゃい」とおいちゃんの声が迎えてくれた。

 「なんだ、嬢ちゃんか」というおいちゃんに「なんだってなによ」と苦笑する。

 「常連さんに対して失礼だこと」

 「おまえさん、最後にいつきたよ」

 わたしはしばらくおいちゃんを見つめてから、なにも答えずに商品棚へ顔を向けた。あちらでは、おいちゃんがよっこいしょと腰をあげる気配がある。

 「麦湯でも飲むかい」

 「くれるの?」

 「嬢ちゃんは常連だからな」

 「じゃあ、お言葉に甘えて。二杯いただこうかな」

 「ちょっと遠慮したって、おいちゃん怒らねえぞ」

 わたしはしばらくおいちゃんを見つめて、またなにも返さずに商品棚へ顔を向けた。あちらでは、おいちゃんが麦湯(、、)を淹れに奥の部屋へ入っていく気配がある。

 おいちゃんはお盆に二杯の麦茶をのせて戻ってきた。そのうちの一方をわたしに差しだし、もう一方を自分で一口飲んだ。

 「ねえ、おいちゃん」

 「どうした」

 「いい画材を使えば、いい絵が描ける?」

 「まさか」とおいちゃんは静かに軽く笑った。「いい絵が描けるかどうかはその人自身の腕の問題だ」

 わたしは「ふうん」と、夢のないことをいうね、と思ったのを隠さないで鼻を鳴らした。

 「ま、というのは冗談でもあって」

 おいちゃんは音を立てて麦茶を啜った。いかにもおじさんらしく、あーっ、とでもいうように息をつく。

 「その人自身の腕ってのは、気分にも左右される。いいものを使って適度に身が引き締まるってんなら、なんか変わるんじゃないか?」

 「そっか……」

 「嬢ちゃん、まだ飽きてないんだな」

 「飽きないよ」

 飽きるはずがない。飽きられるはずがない。

 「しばらくこなかったから、もうすっかり飽きてんだと思ったよ」

 「まさか」と今度はわたしが笑った。

 わたしは油彩を、趣味では終わらせない。いや、わたしの趣味は趣味で終わらない。わからず屋ばっかりだというのなら、そいつら全員わからせてやる。わたしの絵を見せてやる。わたしの絵で魅せてやる。

笑いたければ笑えばいい。くだらないと思うならいえばいい。あいにくそんなことでへこたれるような神経を持って生まれていない。

 花のように華やかに、可憐に。あいにく花と通ずるところは、土台があれば根を張り芽をだすことくらいだ。わたしはどんな花より強い。暑さ寒さ、乾燥、多湿、土質、なんにだって対応してやる。

根腐れをさせられるのならやってみればいい。乾燥で枯らすことができるのならやってみればいい。多過ぎたり少な過ぎる肥料で弱らせられるのならやってみればいい。栽培に向かない土を使って芽吹かせないというのならやってみればいい。

 わたしは花じゃない。はななのだ。時の本に生まれた、はなだ。わたしを咲かすのは土じゃない、水じゃない、肥料じゃない。

 どんな場所であれ、時がくれば咲くのだ。