昇降口から廊下へあがると、「あ、ハナムグリ」と腹立たしい声がした。振り返れば、やわらかそうな黒髪も、スカートと靴下の間の白い肌も、白い運動靴に結ばれた赤い靴紐も、一気に目に飛びこんでくる。胸の奥は悪夢に起こされた夜のように掻き乱される。

 「花車だ、ばか」

 「おはよ」

 「ああ」

 嫌いだ。ここを逃げだしたいほど、リボンタイでも腕でもいいから引き寄せて、どうにか脅してやりたいほど、大嫌いだ。

それをしないのは、一方的に人を不快にさせることを許さない正しい世界に生きているからだ。なにより、威圧して見せれば、この女はきっと、俺を見あげて悲しそうな目をするだろう。

そんな気味の悪い、今まで見せられたどんなものよりずっと夢にでてきそうな表情を焼きつけられるなんてごめんだ。

 「今日、ずっと雨みたいだね。今はまだ平気だけど……」

 ああ、喋るな。俺はお前の声が大嫌いだ。一音一音、鼓膜にこびりつく、さらりとした雰囲気なのに右から左へ、左から右へと聞き流せない、その声が。いつまでも耳の奥に残って、やっと家に帰っても鮮明に蘇ってくる、その清潔感をまといながらもひどく粘着質な声が、大嫌いなんだ。

 「朝から傘さすなんて嫌だしさ、早めにでてきたよ」といいながら、彼女は傘立てに白っぽい色の傘をさした。

 「ああ、そう」

 「花車もそう?」

 ずきん、と鼓動が狂わされた。——ばかのくせに、名前なんか呼びやがって。

 「俺は早起きなんだ、お前とは違う」

 「やだな、わざわざ早起きしてまできたなんていってないじゃん」と彼女は笑う。

 ああ、なんて……腹立たしいんだろう。

 「俺は……お前が気に入らない」

 彼女は廊下にあがってくると、俺のすぐ前に立って見あげてきた。「無礼だった?」

 そういう、細かいところを憶えているところも、気に入らない。

 「愛すは植物、憎むは無礼者。まるでわたしが無礼者みたいな感じでいってた」

 「無礼者だ。名前聞き間違えた上に恥かかせやがって」

 「花車って意外と繊細だよね」

 「黙れ」

 「わたしは人間だよ。花車の機械とか操り人形じゃない。話したいときに話すし黙りたいときに黙る」

 人にお願いする態度も成ってないしね、とどこか楽しそうにいって、彼女は廊下を歩いていく。俺は少し間を空けてから、自分の足元だけを見て廊下を進んだ。

 中学校では上履きがなかったから、そうしていないと彼女の赤い靴紐が目に入ってしまう。

靴下に包まれた細い足首も、少し間違えれば、スカートの裾から覗く白い肌も。そしてそれらが見えれば、本人は普通なのかもしれないけれども、効率が悪そうな小股で歩く小さな足にいらいらすることにもなる。

 俺は自分の足元を見つめることに集中した。