ふと気がつけば、時本がくりくりした、けれども目尻がちょっと吊った、猫のような目でこちらを見て、そのかわいらしい顔を見せつけてきていた。

 なにからどんなふうに話したのか、たった今黙ったところなのに憶えていない。

 彼女はとてもかわいらしく、けれどもどこか大人びた微笑を浮かべた。いたずら好きな子供というような雰囲気もある。

 「あんたのせいだよ」と彼女はいった。それは大きく開いた傷口を、乱暴に、けれども的確に止血してくれるようだった。傷を押さえられる激しい痛みはある。それでも、その痛みはどこか心地いい。

 「ああ……そうだな……」

 「全部あんたが悪い」

 俺は彼女から目を逸らし、天井を見あげた。みっともなく感情があふれそうだった。救われたという喜びが、水月への激しい悔いが、視界を滲ませて流れてきそうだった。

 俺は水月の望みを考えたことがなかった。水月がどんなふうに描きたいか、どんなふうにいたいのか、一度たりとも想像してみたことがなかった。ただその絵に惚れこんだ自分の満足のために、ある種の承認欲求のために、水月を利用した。

 それともなんだ、この絶望は、俺自身のそういった欲求が満たされないことへの絶望なのか? 俺が水月の才能に固着したのは、そういうことだったのか?

 「なんでさっさと会わせてくれなかったの」と彼女の声がした。

 「は……?」見れば、彼女はどこか怒ったような目をしている。

 「わたしを。水月に。なんでもっと早く会わせてくれなかったの」

 「そんなの……」

 「もっと早く会えてたら、こんなに時間がかかったりしないのに」

 「なんの話だ」

 「ハナムグリハヅキがどうしようもないほどのばかだって話。葉月は水月の絵が好きなんでしょ、水月の絵は本物だって思ってるんでしょ? だったら、なんだってそんな、顔も名前も知らないような他人に媚びるようなまねしてんのよ」

 「なにをいってる」

 時本は大げさなほどにため息をついた。細長い指で、艶やかな黒髪を掻き乱す。癖のない髪の毛は、はらりと舞ってすとんとおりてきた。

 「本当にばか。とにかくばか。急がば回れとかいうけどさ、そんなのがどの人にも当てはまるわけないでしょ? 近道しなさいよ、急いでんだから。全力で信号を回避しようとするナビかっていうの」

 「なにが」

 「なんでコンテストなんかださせたの」

 俺はもう、黙って彼女の言葉のつづきを待った。

 「あんなのはね、どうせ教科書を読んでお手本を見て育った人たちがやいやいいうだけのお遊戯なの」

 たまらず噴きだした。彼女はあんまりにも、俺にふさわしくない。

 「なに笑ってんの」と怒る声はかわいいけれども。

 「この間の、俺さまの素晴らしい試合も、そんな調子で見てたわけ?」

 「なんの話?」

 「見にきたろう、試合。おまえにとって試合って、ただのお遊戯か?」

 「それとこれとは……」

 「スポーツと芸術のなにが違う」

 「とにかく」と彼女は声を張った。

 「あんたは道を間違えた。水月がすごい人で、もっと広いところに放ちたいと思うのはわかるよ。でもその方法を間違えた。なんだって誰かに否定させるの。なんだってそんな、わからず屋ばっかりのところにいかせたの。花車水月は素晴らしい。それが理解できる優秀なお客さんの元へ放ってやらないでどうするの」

 時本の大きな目は、激しく燃えていた。ぱちぱちとなにかの爆ぜる音が聞こえてくるようだ。

 彼女は長く、震える息を吐いた。その華奢な体を自分で抱くようにしてうずくまり、ゆっくりと体を起こす。その目には、狂気を(はら)んだ妖しげな酔いが燃えていた。

 「水月が望むなら……わたしが水月を、いるべき場所に連れていく」

 甘く響いたその狂気を滲ませた声は、水月の操る絵筆の立てる音のように、ぞくぞくした興奮を誘った。興奮にはかすかに、ぴりつく香辛料のような恐怖が香る。

 ああ、なんて——。

 なんて、魅力的な人だろう。