玄関の鍵を開け、勢いよく戸を引いて中に駆けこんだ。靴を脱ぎ捨てて居間に入る。「水月」と叫ぶと、座卓の菓子器から小袋をとった彼は「やあおかえり、我が愛しの弟よ」と気取った声で迎えた。

 ずかずかと中へ進み、座布団にどっかと座ると「結果は?」と尋ねる。このひとつ前の夜、水月から病院にいくということを聞いていた。

 「ういろう、食べる?」

 茶化すなといっても変わらない気がしたので、俺は水月の差しだす小さな正方形を受けとった。包みを開けて一口かじる。羊羹とも餅ともつかないもちもちとした絶妙な食感が甘味を広げる。

 「うまいよね、ういろう」という水月の手元にはさきいかの小包みがある。

 「で結果はどうだった?」

 「うん、大したもんじゃない」

 「具体的には?」

 水月は「ちょっと疲れたんだろうってさ」となんでもないようにいって、自分の目元へちょっと指先をやった。

 それは水月にとって最大の心遣いだったに違いない。俺が水月に気を遣わせまいとして答えるときにも、そんな言葉に直しただろう。指先でその辺りに触れて、目が疲れただけだというに違いない。

 だからこそ、本当のところがわかった。疲れたのは目ではないと。見るのを拒んでいるのはその()ではなく、水月自身(、、、、)だと。

 声を限界まで絞りだして溜めてから、「最近、快晴が続いてるからかな」と発すると、水月はほんのかすかに、けれども笑ってしまいそうになるほどわかりやすく、安心した顔つきになった。

 何度かうなずいて、水月は「そうだね」といった。

 「明るいといろんなものが見えすぎる」

 俺はういろうを置いて「手、洗ってくる」といって腰をあげた。「もう食べちゃったじゃん」と笑う水月に「早い方がいい」と答える。

 なんとか水月の死角までなんでもないふりをつづけた。途端、足が止まった。心臓がばくばくした。気が狂いそうだった。今しがた噛み砕き、飲みくだした甘味が胃や胸をむかつかせた。

 足を引きずるようにして脱衣場へ辿り着いた。音が立たないほど緩慢に戸を引いた手は震えていた。全力で走った直後かのような、ざらついた呼吸音がうるさい。

 へたりこんだとき、体はちぎれそうなほど冷たい、焼けるほど熱い恐怖の腕の中にあった。俺のせいだ、と声が響く。強力なまじないは幾度も繰り返された。

 俺のせいだ。俺のせいだ……。
 俺のせいだ、——俺のせいだ。

 体が震えれば、それを抱いている恐怖は楽しむように、自分の中へとりこんでしまおうとでもいうように、腕に一層力をこめた。

 気遣いが、真実を包む情が、これほどまでに残酷だとは思わなかった。

 いっそのこと、おまえのせいだと喚いてくれたならどれだけ幸せだっただろう。おまえのせいでと嘆いてくれたなら、どれだけ救われただろう。

 美術部に入らなかったのがもったいないと、黙って惜しんでいればよかった。陸上部で走るのが楽しいならそれでいいのだと納得していればよかった。高校に入ってからは勉強に専念するといっていたのを、黙って応援していればよかった。

 俺は、水月を殺したのだ。

 学校で勉強に集中することも、外を走ることも、俺は——水月から奪った。

 水月がここで燻っているのがどうにも惜しくて、強引に外へ連れだした。さあいけと見送ったつもりだったけれども、実際には彼はひどい怪我を負って帰ってきた。満身創痍という言葉がふさわしい。外へでることなど、到底できない状態で戻ってきた。

 あの微笑の奥に見た、水月の広げた翼は、他ならない俺がたわめて折った。その背中に深い傷を残して、根本から折った。兄の背から痛ましく流れる鮮血は、罪となって俺の手を濡らし、洗い落とすことができないままに、こびりついて乾いた。俺への慰めのように、痛みを伴うあたたかな戒めのように、善良な他者への警告のように。