水月はプロデューサーの苦悩を理解できないまま、俺が第一志望校として合格したところより二か三ほど偏差値の高い高校に合格した。

その一年前に共学となったその学校は、水月の学年ではおおよそ半分が女子らしい。勇気のある女子もいるものだなと思った。女子が自分一人なんてことはないだろうけれども、学年のほとんどが男子という場合を想像しなかったのだろうか、と。

 俺はといえば、同じ中学校だった人の多くが進むような、すごいすごいと騒がれているわけでもなければ悪目立ちしているわけでもない、平凡で平穏な共学校に進んだ。

当時がっちりと抱えていた歪んだ自尊心は決して認めないだろうけれども、彼女もここへ進むだろうと考えたからに違いない。

 果たして、時本はなはその学校にいた。校門の前に長い長いゆるやかな坂が伸びるこの学校に、彼女も入学していた。出席番号順に置かれた机は、出逢ったときのように彼女のものと隣り合わせだった。その喜びを、つまらない自尊心は『気に入らない』と蹴散らした。『ばか』『ばか』と悪態をついた。

 大型連休の前だった。

 水月の描いている絵を、恍惚として眺めていた。部屋を満たす絵具のにおいに心地よく酔い、絵筆が画用紙を撫でたり叩いたりする音に、なんともいえない、ぞくぞくするような興奮を感じていた。

 水月が息をついたとき、俺はその何倍も深く息をついた。半ば、呼吸をすることを忘れていた。

 吐きだした息の一部が、「綺麗……」と震えた。

 「そう?」と水月はいった。

 やがて興奮が落ち着いてから、「だせばいいのに」といってみた。

 「コンテスト」

 「そうかなあ」と水月は静かに、悩ましげにいった。

 「もったいないって。こんなの描けるんだから」

 「そうかなあ」

 「一回だしてみろって。絶対もったいないって」

 「そうかなあ」と、彼はしみじみといった。

 「運、か……」と、またしみじみつぶやく。

 「運?」

 水月は短く唸ると、そのまま黙りこんでしまった。

 「葉月」と俺を呼んでこちらを向く兄の目を、それがこちらにそうするように見つめ返す。

 水月はしばらくそうしてから、ふっと表情をやわらげた。

 「なんか、やってるかな」

 手前でいったくせに、その言葉の意味するところがわからなかった。

 「運も実力のうちってね。ひとつ、運試しでもしてみようか」

 腹の底から、爆発でもしてぶわりと煙があがるように、ぞくぞくとした、快感とでも呼びたくなるような興奮が湧きあがってきた。

 「それがいいよ」と答えた声はうるさいほどだった。

 「それがいいよ、それがいい!」

 この上なく幸せだった。水月がこのままで終わらない。水月が本当に本物になるんだという確信が、喜びが、体中で暴れ回った。叫びだしたかった。確信と喜びが戯れてはしゃぎ踊るように、自分も動き回りたかった。

 今まで生きてきた中で——十五年半ほどの時間がどれほどの長さなのかわからないけれども——一番幸せで、一番満ち足りた瞬間だった。