「花車」と呼ばれて、声のだしづらい、違和感のある喉で「はい」と答えた。「ちょっとやってみるか」といってくれたのは田崎先輩だった。
「なにをです?」と訊き返すと、「練習」と彼はなんでもないようにいった。「神童の田崎パイセンが付き合ってやる」と。
オン・ユア・マークの合図だった。
心底嬉しく思いながら「お願いします」と答えた声には、実際の感情ほどの愛嬌はなかった。鎧のせいか声変わりのせいかはわからない。
先輩は俺の手元を一瞥し、台の方へ向かった。
「ラケット、それでいいからこい」
セット。
青い台越しに先輩と向き合う。ラケットを握る右手に力が入っているのに気がついて、こっそり深呼吸した。
乾いた音は、空に向かってではなく、台の上で弾けた。
人並みにはあるはずの動体視力はまるで役に立たなかった。振ったラケットにはなんら手応えがなく、後方でなにやら、こんこんと軽いものが弾んでいる。
「素晴らしい」と先輩は真意の読めない声でいった。見れば口角はあがっている。
「おまえ、せっかち?」
「いや、そんなことないと思いますけど……」
「そうか。気づけてよかったな、おまえはせっかちだ」
「そうですか……」
「いや、気にすることはない。次はさ、逆に俺の練習に付き合ってる気でやってみ」
無茶なことをいう人だ。
「いくぞー」と気の抜けた声に、もう一度ラケットを構える。
「違う違う」と先輩はラケットを持ったまま手を振った。
「俺が素人、おまえが先輩」
「なぞなぞですか」
「違う違う」と先輩は小さく笑った。それからぴたりと動きを止めたかと思うと、腹を抱えてげらげら笑いだした。
彼は座りこみそうな調子で笑いながら、「違う違う」といった。
「『俺が素人、おまえが先輩。これなーんだ?』じゃないのよ」
ひいひい、いいながらげらげら笑う先輩は、「腹痛い」とひっくり返った声をあげる。
ひとしきり笑い転げると、先輩は「今ここじゃ、おまえは俺よりずっとうまいんだ」とまじめな調子でいった。今度は俺が笑いそうだった。
「まさか」と返した声はずいぶんじょうずに笑いそうなのを隠した。
「気楽にやってみ、てこった。気張らず、ふらーっと打てばいい」
ほら、と先輩はいった。「吸ってー、吐いてー、だ。深呼吸」
今度は隠すでもなくしっかりと深呼吸した。
こん、と手前のコートに落ちた球に、ラケットを近づけてみる。今度は、かこ、と軽い音と一緒に、球はあちらへ帰っていった。けれどもすぐに戻ってきて、俺はまたラケットを近づける。球がまた帰っていく。
「うまいうまい」と先輩が楽しそうに声をあげる。
その声に調子にのって強く返してみると、あちらもちょっとひねってきた。左に飛ばされ、腕を伸ばす。当たりはしたものの、今までとは伝わってくる感覚が違った。
「すげえすげえ」とおだてられ、とうとう打ち返せなくなった。
「いやあ、うまいうまい。おまえ、絶対でかくなるよ」
「俺、あんまり褒められるとできなくなるんですけど」
「ばかおまえ、こういうときは『当然』とかいっておくんだよ」
「嘘じゃないですか」
「ばーか、嘘なんてのはあとで結果をくっつけときゃあいいんだよ」
「くっつきますか」
「くっつけりゃくっつく」
「くっつけられますか」
「くっつけるんだよ。勝手にくっつかなけりゃ潰したお米粒でも使えばいい」
「お米粒でくっつきますか」
「やかましい。どんな手を使ってでもくっつけるんだ。結果さえ伴ってりゃどんな嘘もついていい。結果が伴わないならせめて誰かを笑わせにゃいかん」
「そこまでして——」
嘘をつきたいですか、といおうとしたのを「はったり上等」と遮られた。
「よく聞け一年坊。俺はな、この二年間はったりだけでやってきたんだ」
とても心配になる告白をしてきた。
「そんなことでやってられんのかって? なんら問題ないね。だって俺、必ずお米粒で結果くっつけたもん」
お米粒を無駄にしているだけの先輩が、このとき、どうして格好よく見えたのかわからない。けれども、こんなふうになってみたいと思ってしまった。
「おまえはでっかくなる」
「本当ですか」
「俺にはわかる。おまえはすごいやつだ」
「天才?」
「ああ」と先輩は顔をしかめた。虫でも払うように手を動かす。
「俺、天才とか努力とか嫌いなんだよね。天才は努力しなくてもいいとか、努力は必ずしも報われないとか、天才も努力してるとか。やかましい、かしましい、かまびすしい。俺の中にあるのって、すごいかそうじゃないかだから。そのうち、おまえは“すごい”の方にいる。俺と同じ方」
先輩は得意げに笑った。
「嘘だと思うならそれでもいい。俺のはったりははったりで終わらない」
先輩は声を張りあげて部長を呼んだ。
「俺、今日から花車を担当するっす」と大声で宣言する。
「え、なに急に」
「すごい俺がすごい花車を育てるんですよ」
「はったりか?」と部長は笑った。
「俺がどんな結果をくっつけるか、おおよそ想像はつきましょう?」
「日本一にでもなるつもりか?」といってにやりと笑う部長を、先輩は「なに」と鼻で笑った。
「そんなもんは通過点ですよ」
「なにをです?」と訊き返すと、「練習」と彼はなんでもないようにいった。「神童の田崎パイセンが付き合ってやる」と。
オン・ユア・マークの合図だった。
心底嬉しく思いながら「お願いします」と答えた声には、実際の感情ほどの愛嬌はなかった。鎧のせいか声変わりのせいかはわからない。
先輩は俺の手元を一瞥し、台の方へ向かった。
「ラケット、それでいいからこい」
セット。
青い台越しに先輩と向き合う。ラケットを握る右手に力が入っているのに気がついて、こっそり深呼吸した。
乾いた音は、空に向かってではなく、台の上で弾けた。
人並みにはあるはずの動体視力はまるで役に立たなかった。振ったラケットにはなんら手応えがなく、後方でなにやら、こんこんと軽いものが弾んでいる。
「素晴らしい」と先輩は真意の読めない声でいった。見れば口角はあがっている。
「おまえ、せっかち?」
「いや、そんなことないと思いますけど……」
「そうか。気づけてよかったな、おまえはせっかちだ」
「そうですか……」
「いや、気にすることはない。次はさ、逆に俺の練習に付き合ってる気でやってみ」
無茶なことをいう人だ。
「いくぞー」と気の抜けた声に、もう一度ラケットを構える。
「違う違う」と先輩はラケットを持ったまま手を振った。
「俺が素人、おまえが先輩」
「なぞなぞですか」
「違う違う」と先輩は小さく笑った。それからぴたりと動きを止めたかと思うと、腹を抱えてげらげら笑いだした。
彼は座りこみそうな調子で笑いながら、「違う違う」といった。
「『俺が素人、おまえが先輩。これなーんだ?』じゃないのよ」
ひいひい、いいながらげらげら笑う先輩は、「腹痛い」とひっくり返った声をあげる。
ひとしきり笑い転げると、先輩は「今ここじゃ、おまえは俺よりずっとうまいんだ」とまじめな調子でいった。今度は俺が笑いそうだった。
「まさか」と返した声はずいぶんじょうずに笑いそうなのを隠した。
「気楽にやってみ、てこった。気張らず、ふらーっと打てばいい」
ほら、と先輩はいった。「吸ってー、吐いてー、だ。深呼吸」
今度は隠すでもなくしっかりと深呼吸した。
こん、と手前のコートに落ちた球に、ラケットを近づけてみる。今度は、かこ、と軽い音と一緒に、球はあちらへ帰っていった。けれどもすぐに戻ってきて、俺はまたラケットを近づける。球がまた帰っていく。
「うまいうまい」と先輩が楽しそうに声をあげる。
その声に調子にのって強く返してみると、あちらもちょっとひねってきた。左に飛ばされ、腕を伸ばす。当たりはしたものの、今までとは伝わってくる感覚が違った。
「すげえすげえ」とおだてられ、とうとう打ち返せなくなった。
「いやあ、うまいうまい。おまえ、絶対でかくなるよ」
「俺、あんまり褒められるとできなくなるんですけど」
「ばかおまえ、こういうときは『当然』とかいっておくんだよ」
「嘘じゃないですか」
「ばーか、嘘なんてのはあとで結果をくっつけときゃあいいんだよ」
「くっつきますか」
「くっつけりゃくっつく」
「くっつけられますか」
「くっつけるんだよ。勝手にくっつかなけりゃ潰したお米粒でも使えばいい」
「お米粒でくっつきますか」
「やかましい。どんな手を使ってでもくっつけるんだ。結果さえ伴ってりゃどんな嘘もついていい。結果が伴わないならせめて誰かを笑わせにゃいかん」
「そこまでして——」
嘘をつきたいですか、といおうとしたのを「はったり上等」と遮られた。
「よく聞け一年坊。俺はな、この二年間はったりだけでやってきたんだ」
とても心配になる告白をしてきた。
「そんなことでやってられんのかって? なんら問題ないね。だって俺、必ずお米粒で結果くっつけたもん」
お米粒を無駄にしているだけの先輩が、このとき、どうして格好よく見えたのかわからない。けれども、こんなふうになってみたいと思ってしまった。
「おまえはでっかくなる」
「本当ですか」
「俺にはわかる。おまえはすごいやつだ」
「天才?」
「ああ」と先輩は顔をしかめた。虫でも払うように手を動かす。
「俺、天才とか努力とか嫌いなんだよね。天才は努力しなくてもいいとか、努力は必ずしも報われないとか、天才も努力してるとか。やかましい、かしましい、かまびすしい。俺の中にあるのって、すごいかそうじゃないかだから。そのうち、おまえは“すごい”の方にいる。俺と同じ方」
先輩は得意げに笑った。
「嘘だと思うならそれでもいい。俺のはったりははったりで終わらない」
先輩は声を張りあげて部長を呼んだ。
「俺、今日から花車を担当するっす」と大声で宣言する。
「え、なに急に」
「すごい俺がすごい花車を育てるんですよ」
「はったりか?」と部長は笑った。
「俺がどんな結果をくっつけるか、おおよそ想像はつきましょう?」
「日本一にでもなるつもりか?」といってにやりと笑う部長を、先輩は「なに」と鼻で笑った。
「そんなもんは通過点ですよ」