風呂あがり、台所で一杯の水を飲んで、髪を乾かしに脱衣場へ戻った。トイレの水を流す音がして警戒した通り、通路を妨害しに突きだしてきた扉に真正面からぶつかった。警戒したのだから足を止めておくべきだった。

 「ああ、葉月か」と気の抜けた兄の声に「俺ならぶつけてもいいみたいなのやめろ」と返す。

 髪を乾かすのと手を洗うのとで一緒に脱衣場に入った。水月は洗面台の水栓をひねった。

 「葉月は中学いったら、部活どうするの?」

 俺はコンセントにドライヤーのプラグを挿したまま考えた。

 「まあ、運動部かな。直射日光が暑いから、室内のバスケとかバドとか。テニスってずっと興味あるけど外なんだよな……」

 頭にかぶったタオルで適当に髪を拭く。

 「母さんのせい?」と訊いてみたけれど、水月はなにもいわずに水を止めた。答える気がないというよりも、質問の意味がわからないといった黙り方だ。

 「特別な人はいないなんて、ひどいことをいう。水月は嫌味なほど謙遜する」

 「そういうわけじゃないよ」と水月は鏡に背を向け、洗面台に腰をあてた。

 「俺は特別な人はいないって言葉に救われる側だもの」

 「それがもう、思いこみなんじゃないの」

 「買い被りだよ」と水月は苦笑する。

 「俺は葉月が思うような、すごい人じゃない」

 俺は頭にのせていたタオルを洗濯機に入れた。

 「……そんなはずない」

 水月は俺とは違う。水月は凡人じゃない。このまま終わっていいはずがない。花車水月は、俺の兄は、本物だ。

 「特別な人はいる。人がみんな平等なんてのは、みんなの理想で幻想だよ。普通の人のがむしゃらな努力とか小さな幸運が到底及ばないところにいる、特別な人っていうのはいるんだよ。水月はその一人だ」

 「そうかな」

 「水月はもっと、自信を持つべきだよ。特別な人の謙遜なんて嫌味でしかないし、特別な人が説く平等なんて当てつけにしかならない。水月には、そういうものが必要ないんだよ」

 「そうだったら、ちょっとおもしろいね」と、水月は静かに口角を持ちあげた。

その微笑が、俺には兄の背が広げた翼に見えた。狭い籠に閉じこめられ、人間にかわいいかわいいと甘くささやかれていた小鳥が、雲と戯れる青い大空を見あげ、そこで踊ることを望んだ瞬間に思われた。

 さあ羽ばたけと祈らずにいられなかった。ここはおまえのいるべき場所じゃない。さあ止まり木を蹴れと念じずにいられなかった。

 本物が本物として輝く特別な瞬間を、この目で見たいと願わずにいられなかった。

 水月の、外側に滲む感性の豊かさが、画用紙へ写しだされる胸の内側の清らかさが、ついに彼にふさわしい美しく広大な、特別な次元へいくのだと、激しい興奮に胸のうちが震えた。