小三の休日に見た一枚の絵をよく憶えている。

 淡く優しい、染み入るような色合いだった。

 水月の絵が好きだった。自分のへたな絵と兄のじょうずな絵とを比べようとは思わなかった。人は圧倒的な差を見せつけられると、相手と比べて落ちこむことも、嫉妬することもなくなるのかもしれない。

 座卓に置かれた、ごく普通の画用紙。その中に、綺麗な庭があった。花水木が枝に花を咲かせ、その足元にわらわらと花が植えてあり、その花々に水をやるのに引っ張ってきたホースがあった。

放られたヘッドの周りだけ地面の色が濃くなっていた。古いホースだったから、花に水をやったりしていると、ヘッドを持っている手が洗ったように濡れた。それは水栓を閉めなければ止まらず、ヘッドを放っておくと水たまりができた。

 生活感あふれる自宅の庭の一コマが、画用紙の中にあった。

 「そろそろ乾いたかな」と水月の声がした。見れば、菓子器(かしき)にこんもりと菓子を盛った水月がいた。

 俺は彼の差しだす菓子器からひとつ煎餅の小袋をとり、「水月は本当に絵がうまいね」といって座布団に腰をおろした。

 「そうかな」と水月は恥ずかしそうにいって、座卓を挟んで俺の前に座った。

 「これは飾る?」

 「飾らないよ」と水月は困ったように笑う。

 「どうして、もったいないよ」

 「俺は、うまくなんかないよ」

 俺は煎餅を一口かじった。いやに悲しい心持ちだったのを憶えている。

 「……じゃあ、水月は……なんのために絵を描いてるの?」

 「楽しいからだよ」

 「それだけ? 部屋に飾ろうとか思わないの?」

 「うん……飾るほどのものじゃないよ」

 「水月が描いたっていう記念」

 「いくらでも描けるじゃん」と水月は笑った。

 「もっと描いてくれる?」

 「いいけど……」水月は座卓の上の画用紙の表面に指先で触った。顔を画用紙に向けたまま、目だけで俺を見る。「見たい、こんな絵?」

 「見たいよ。俺は水月の絵が好きなんだ」

 「葉月は変わってる」と水月は本当におかしそうに笑う。

 「水月だって、俺の笛をじょうずだなんていう」

 「葉月はじょうずだよ」

 「水月の絵だってじょうずだ」

 水月は「わかったよ」と穏やかに笑ってうなずいた。「描いた絵は、葉月には見せる」

 彼は菓子器から、甘納豆の三角形の包みをとりだして開けた。一粒口に入れて包みを差しだしてくる。俺は中から一粒もらって口に入れた。噛めばしっとりとやわらかな甘味が広がる。

 「へたくそなときは笑ってよね」

 「水月はへたくそな絵なんか描かない」水月の絵は、いつだって綺麗だ。