「具体的に」と彼女はいった。「どんな絵を描いてたの。すごいのはわかってる」

 「水彩画だ」

 「知ってる」

 「なにを知らないんだ」

 「水月がなにを描いてたか」

 「水彩画」

 「水彩でなにを描いたの。風景とか人物とか、いろいろあるでしょう」

 「ああ」と俺はうなずいた。「いろいろ描いてた。風景が多かったか」

 多かった——。自分の言葉が濡れたままの傷口に爪を立てる。俺は本物から、本物が本物であるという当然を奪った。

 その人は当然にその人だ。考え方、感じ方、声、容姿、その他諸々、それらのすべてを自分のものとしているのがその人だ。

その人から、考えを、感情を、声を容姿を奪った者があったとき、その者にはどれほどの罰が与えられるだろう。どれほどの罰が、与えられるべきだろう。

その人をその人でなくしたその悪者は、どれほどの罰で償えるだろう。どれほどの罰で、その人がその人である、狂おしいほどに尊い当然は返ってくるだろう。

 「水月とはどんな話をした?」

 「盗み聴きでもしてればよかったのに」

 「そんなスリルはいらない。知りたいことなら真正面から知る」

 時本はしばらく黙ってから、「大した話はなんにも」といった。

 「きっつい諷刺(ふうし)に終始するコメディは聞かされたけど」

 「滑稽だった?」

 「そりゃあもう」となんでもないようにいう彼女の目の奥には物憂げな影が揺れている。

 「おまえさんはその喜劇の真の主役を知らない」

 「そうなんですの」

 「そうなんですよ」

 「興味はないけど」

 「どんな話を聞いたか知らないけども、おおよそ想像はつく」

 時本は、優しい水月の残酷な嘘にまみれた悲喜劇を聞いたに違いない。

 「その話には黒幕がいる」

 「なにその、都市伝説みたいな」

 「事実だ」

 「都市伝説を信じる人はみんなそういうの」

 「おまえの周りにはそういうやつが多いのか」

 「だいたいそういうもんでしょって話」

 少しの沈黙を、時本は「話したいなら話しなよ」と破った。

 「ハナムグリがそこまで騒ぐんじゃあ、さぞおもしろい話なんでしょ」

 俺はつまらない話はしない、と強がろうとしたものの、声にはならなかった。これからする話はおもしろいとはとてもいえない。自分の傷を止血するのが目的の、あんまりに利己的な話だ。

さぞおもしろい話なんでしょうなんていうのは嫌味に違いない。時本は決して、おもしろさなど期待していない。それにしてもつまらないものだから、強がることもふざけることもできなかった。