自席に鞄を置いて隣を窺うと、かわいい女子が絵画を解説しているものと見える文庫本を開いていた。その深く黒く澄んだ虹彩は、ページの一点を見つめたまま動かない。本を開いたままにした手は、人差し指で忙しなく本の表紙を叩いている。

 重たい鞄の中身——置き勉という便利の先にはひどい重労働が待っている——を机に入れ、机のフックに肩紐を引っかけると、俺は腕に頭をのせて彼女を見た。

 「読書もはかどりませんか、先生?」

 その美少女——そういってしまうとなんとも薄っぺらなものに感じてしまうけれど——は、その眉でその目でその唇でうんざりした表情を作り、「だから」とかわいい声を低く発した。

 「その先生ってのやめて」

 「本物との出逢いはいかがでした?」

 「あんたって本当に感じ悪い」

 俺は肩をすくめた。「とんでもない、俺はおまえを尊敬している」

 「なんて光栄かしら」と彼女も薄い肩を持ちあげる。「あんまりに嬉しくて暴れだしたいわ」

 「そう喜ぶことない」それが抱えた価値を認めるのは、それを見た者の義務だ。

 「双子っていってもやっぱり別の人だね」

 「弟の方が魅力的だったか?」

 「お赤飯炊いてあげる」

 プロポーズが実ったわけか、とふざけるのはちょっと勇気がいり、その勇気は捻りだせなかった。

 「ええ……うまいかね、おまえの赤飯」

 「わたしは絵が描けて料理ができれば満ち足りた生活が送れる」

 それはなによりだ。

 「俺はおまえの赤飯がうまいか訊いたんだけど」

 「おいしいよ」と彼女はいい切った。「わたしがおいしいっていってるんだから」

 「そりゃ魅力的だよ」と俺は苦笑する。その強気な愛らしさが苦しいほどで、これほどまでに感じてしまう自分には笑うしかない。

 彼女はぱたんと文庫本を閉じ、机の中にしまった。

 「水月って、どんな絵を描いてたの?」

 「そりゃあ、すんごい絵だ」とふざけながら、俺は彼女の赤飯を食えはしないことを深く理解した。なんて痛くて、心地いいのだろう。

 彼女は俺を祝福しない。そうするほどの距離にいてくれない。手を伸ばしても届かず、姿の見える方へ走っても、彼女の隣には決して辿り着けない。

おかげで俺の彼女を()う暴力的な感情は、彼女を傷つけることがない。その安らぎはひどく甘美で、くらくらするほどの幸福で体の中の全部を満たす。

 欲しいものが手に入らないことは、幸福とはある程度の距離を置いているようで、実はひとつになるほど近くにある。ふたつは円の上で、向かい合ったままあとじさっていくのかもしれない。

ようやく相手が見えなくなってほっとするのも束の間、背中がぴたりと触れてしまう。その驚きは、ふたつをしばらく動かさない。俺は今、その瞬間のふたつを感じている。