家に帰ると、ふと意識を引かれるものがあった。見れば、靴箱の上の壁に、爽やかな緑の絵が飾ってある。竹林を描いた、明るく優しい新緑が一面に広がる絵だ。

 画材を部屋に置き、リビングに入ると、キッチンから煮物のにおいがした。

 「おかえり」というお母さんに、「玄関の絵、どうしたの?」と尋ねる。

 「今日届いたんだよ」

 「どこから? 名無しの画家さん?」

 「まさか」とキッチンでお母さんの声が笑う。

 「この間、ギャラリーにいってきたっていったでしょう?」

 「なんだっけ。なんか、友達がやってるとかっていう……」

 「お姉ちゃんの大学の先輩ね」全然違う、とお母さんは苦笑する。「なかなか格好いいんだから、その人」

 「で、そこで買ったものが届いた、と」

 「そうそう。綺麗な絵でしょう、一目惚れしちゃったんだから」

 「いくらくらいするの、ああいうのって」

 「あれは一万二千円。わたしも、展覧会とかいっても買うつもりで観ることは少ないから詳しくないけど、普通じゃないのかな」

 「ふうん」

 画家。なれたら楽しいだろうな。画廊や展覧会にだす作品を描いて、売れたらそのぶんをまた描いて、誰かから、どこかから依頼があるようならそれに応える。それ以外の日は腕を磨くことに専念する。美しいものを美しいまま、カンヴァスに切りとれるように。

 美しいものを、美しいまま——。

 水月——。
 花車水月——。

 彼は、どんな絵を描くんだろう。

 あのばか男の、花車葉月の“本物”と認める絵は、どんなものなのだろう。

 一次審査を突破できない、直線とも曲線ともいえないようながらくただとは、わたしには思えない。

 あの狂気的な熱弁が思いだされる。

 花車水月は天才じゃない。いたずらに絵筆を消耗させ、画用紙を汚すだけの問題児——。

 そんなものを、あのプライドの塊みたいな、水月には悪いけれども純粋さのかけらもないような葉月が、“本物”とまでいうだろうか。

 たとえ葉月が本当に純粋に、水月の絵を好きで、純粋に素晴らしいと思って本物と呼んでいたのだとしても、水月のいうようながらくたを対象に、葉月はあんなふうに、誇らしげに、本物を知っている、なんて宣言するだろうか。

 誰に見せても恥ずかしくないようなものをいっていなければ、あんな堂々としていられないはずだ。

 なにせ花車葉月、あいつは、はなぐるまをハナムグリと聞き間違えられただけであんなに恥ずかしがって、何年も引きずるような小心な男なのだ。

 そんなやつが、いつかわたしが水月と出逢い、彼の絵を見る可能性を考えられなかったとは思えない。もしもわたしが、その水月の絵を否定した場合、葉月はどうするのだろう。

水月のいう天才(、、)のように、おまえが間違っているんだと激しく拒絶するのだろうか。常に他人を見下すような態度のばか男だけれども、それほど感情を爆発させるところは想像できない。

 だとすればやはり、葉月はよほどの自信を持って、水月の絵を本物と評価しているのではないか。

 葉月のことも水月のことも、買いかぶっているというのならそれでもいい。けれどもわたしは、水月の絵に、水月に、ひどく興味を惹かれる。