少し沈黙がつづいて、見れば彼のまぶたはまた閉じられていた。うまく見られない、というのはどういう状態なのだろう。

磨りガラスの向こうを見ようとするようなものなのか、ここが明かりの少ない夜道に見えているのか、あるいは、この景色を全部、筆でぐちゃぐちゃにしてしまったように見えているのかもしれない。わたしには、想像することさえ易くない。

 かわいい子供や動植物が見えて、空気の波動が聞こえて、好きなにおいと苦手なにおいがあって、

お肉、魚介類、ナッツ類、そのほかのものも、味とか食感だけで食べるか食べないかを決められて、これが好きだこれが嫌いだと一丁前に回る舌があって、

その前に、知ったもの全部を好きか嫌いか無意識に選ぶ頭があって、触れたいものに伸ばせる腕があって、人や動物の体温が、植物のみずみずしさがわかる指先があって、

それらに歩み寄れる脚があって——それを、ほとんどの場所で尊いものとする。そのすべてをこの一身にできるのは幸せな、恵まれたことだとする。

 でも、本当にそうなんだろうか。

一分一秒を過ごすだけでも情報過多なこの恵まれた(、、、、)体は、見て聞いて、嗅いで味わって触れたものに好きか嫌いかの札をあげることだけで頭を忙しくさせ、この過剰な情報のどれかが伝わらないことを想像したり理解する余裕を与えない。

 わたしは、水月の見ているものを、理解できなければ想像することさえできない。

 もちろん、水月はそんなことは望んでいないかもしれない。

 それでもわたしの意識は彼に近づこうとし、それができないことにひどい不自由を感じる。

 この恵まれた(、、、、)体は、なにができる——?

 「きみは」と声がして、はっとする。

 「時本。時本はな」

 「時間の時……?」

 わたしは一度うなずいた。「時間の時に、(ほん)。はなは、ひらがな。はなでいいよ」

 「はなは、絵を描くのは好き?」

 「うん、好きだよ」

 「楽しい?」

 「うん、楽しいよ」

 「はなは」と水月はちょっと、声を曇らせた。

 「どんなときに、絵を描くの?」

 どんなとき……。

 「どんなときなんだろう……。描きたいときだけど……」

 水月がいうのは、どんなときに描きたいと思うのか、ということなのだろう。

 「なんか退屈なときとか、刺激がほしいときかな。いや、違うな……どういうときだろう。なんか、衝動的に描きたくなる。絵を観たくなるときもあるんだよ。無性に絵が観たいって。でも、観たいのも描きたいのも、よくわからないな……どんなときにそう思うんだろう」

 「ストレスが溜まったとき、とか?」

 「いや、それは違うよ。ストレスが溜まったら、わたしはかつ丼を食べるの」

 きっぱりと答えると、水月は静かに肩を震わせ、やがて声をあげて笑った。

 「え、なんか変だった……?」

 「いや、変じゃないよ。そっか、かつ丼ね。はなはかつ丼が好きなんだ?」

 わたしは水月の様子を窺いつつうなずいた。「かつ丼を食べておけばなんとかなるよ」

 「そっか、かつ丼が好きなんだね。よく店に食べにいくの?」

 「うん、近所にいいお店があるから」

 「そっか、そうなんだね」と、水月は一人で妙に納得した様子だ。

 「なんか、全部わかった気がするよ」

 水月は空を見あげて、まぶたを開いた。

 「世界って、小さいものだね」

 水月は目を細め、目と目の間に、望遠鏡のようにすぼめた手をやった。

 隣で同じようにしてみると、空が小さく見えた。

 水月はすぼめた手をおろして腰の後ろについた。まねをするつもりでもなく、わたしも同じようにする。

 「俺にはすごくいい友達がいてね、その一人に兄貴がいるんだけど、その兄貴がバイト先で年下の女の子に告白をしたそうでね。惨敗したと嘆いてたと、その弟が俺に話したんだ」

 わたしはぎくりとしたのを必死に隠し、「へえ」と相槌をうった。

 「それを俺がはなに話す。小さい世界だね」

 わたしはあいまいに笑った。頭の中には千葉さんの顔しか浮かんでいない。水月の方には、わたしの知らない、千葉さんの弟の顔が浮かんでいることだろう。

 そういえば千葉さんって、てらちゃんのいとこだったな、と思いだしたのは、現実逃避みたいなものに違いない。