葉月の足音は、わたしたちの後ろを通って遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 のんびりとつづく沈黙が気になって、「あの」と声をかけてみる。

 「その、……知り合い、ていうか……」いや、知り合いか。「知り合いのね、(きょうだい)が、きみの同級生みたいで」

 わたしがいうと、彼は優しく、怖いほど美しく、微笑んだ。「なるほどね」と綺麗な声が呟く。

 「……その、……出歩いて平気なの?」

 「うん、問題ないよ」と水月くんはいった。「葉月がいれば」と、苦しそうに。

 あのばか男も、わたしの知らないところではまともなこともしているということか。

 「葉月はなにかいってた?」

 「水月くんのこと?」

 「水月でいいよ」

 「なにもいってなかったよ」あいつ、といいかけて飲みこむ。「葉月にきょうだいがいるなんて知らなかったし」

 「そうか」と水月はうなずく。

 彼はゆっくりと、まぶたを開いた(、、、、、、、)。彼の目は細かったんじゃない。実際に閉じられていたんだ。しかし、どうしてそんなことを——。

 こちらを向いた彼の目は、星の輝く夜空のそのものだった。自然に生まれたものだと信じられないほど、惹かれるものがある。夜空に星を見つけて嬉しくなるように、夜空に輝く星が綺麗なように、夜空の星を思わず見つめてしまうように、彼の瞳に心を奪われた。

 けれど——。

 彼の表情からは、なんとなく見づらそうな、どこを見ていいかわからないような、そんな苦しみが(うかが)えた。

 「葉月は、俺のこれを全部、自分のせいだと思ってるんだ」

 わたしは水月の言葉を待った。

 「俺はうまく、きみのことが見られない。いや、ここじゃ葉月のことだってそうだ。……俺の、世にも愚かな自信と、自尊心の結晶だよ」

 「……どういうこと……?」

 「ちょっと前まで、俺も絵を描いてたんだ。水彩画をね」

 「そう……」今はやめてしまったということか。薫風堂のおいちゃんもそうだし、そういう人はわたしが思うよりずっと多いのかもしれない。

 「いかにも子供らしい、知識も技術もない落書きだよ」

 恩愛橋の方から、軽快な足音が聞こえてきた。それは冷静で律動的な呼吸とともにわたしたちの後ろを走っていった。鮮やかな色合いのランニングウェアに身を包み、黒いポニーテールを揺らす女性の姿がちらと頭に浮かんだ。

 「母が書を嗜んでいてね。その影響で、小さい頃からその墨と筆で線だの模様だのを書いてたんだ」

 「水墨画……」

 「そんな大層なもんじゃないよ」と水月は笑う。

 「それから小学校にあがって、図工のための絵具セットを買ってもらった。それで家でも描いてみたりして」

 そこで水月は、目の奥を悲しげに揺らした。

 「そんな絵をさ、葉月は気に入ってくれたんだ」

 おかしいだろう、とでもいうように、彼は困ったように、けれども明るく笑った。

 「葉月のやつ、本物(、、)なんていうんだよ、あの落書きを」

 胸の奥が強く跳ねた。俺は本物を知っている、といった葉月の声が蘇る。あれは水月のことだったのだ。

 「それ、……わたしにもいってた。俺は本物を知っているって」

 「なんて純粋な子だろうね」と、水月はまるで幼い子供について話すみたいにいった。

 「あの純粋さは、繊細さは、葉月にとって凶器でしかないよ」

 あいつがそんなにいうほど純粋かな、とは、いくらわたしでもいえない。あいつを純粋で繊細な男の子だとは少しも思えないけれど。