夕方、呼び鈴の音に玄関の戸を開けると、橙に焼けた初夏のもとに千葉が立っていた。帰り際、世界の誕生とともに会いにくるといっていた男だ。苗字の“千葉”以外の呼び方を——せいぜい“お前”くらいしか——決して受けつけない男。
「世界ができたぞ」と彼は笑った。
「そのようだね」と俺も笑い返す。
前回のように座卓を挟んで座ると、千葉は「差し入れ持ってきてやったぜ」と鞄の中をあさった。
「ほい」と座卓に差しだされたのはひとつの駄菓子だった。
千葉は「詰め合わせを買ったんだ」と、改めて鞄をあさりながらいう。
「六個入ってたから、ちょいどいいと思って」
残りの五つは哲学を愛する沢木を筆頭に、友達とわけたのだろう。
千葉は鞄から引きだした冊子類をどさんと座卓に置いた。
「いやあ、この間はどうなるかと思ったけどさ、本当、元気そうでなによりだよ」
「千葉もこの間より元気そうだ」
千葉はちょっと迷うように黙ってから「まあな」と白い歯を見せた。
その無邪気な笑い顔と向かって右側にだけある八重歯がちょっとかわいいのだけれど、それを口にだせばどうなるのかは、なんとなくわかる。千葉は自分以外に向けられた声にまで反応するくらいには、“かわいい”に敏感だ。
「水月に貸しを作れるなんてそうそうないからな。うっきうきよ」
「ああ、今度ほかの駄菓子奢るよ」
「えっ、そっち?」と冗談ぽくない反応を見せる千葉を笑うと、彼もちょっと笑った。
「お前の方は大丈夫なの?」
「ああ、そのノート全部、沢木のだから」
「なにしてんの」
「嘘。沢木のノート、絶対端っこにぱらぱら漫画なんか描いてないでしょ」
一番上のノートをぱらぱらしてみると、棒人間が転んで起きてを繰り返した。
「題名は『七転び八起き』だ」
二番目のノートでは、棒人間が跳び箱で鉄棒で走りこみで、ことごとく失敗していた。
「題名は『体育あるある』だ」
「なに、全部把握してるの?」
「自分で描いて忘れないだろ」
俺はまず英語のノートの中身を見た。ぱらぱら漫画ではなく、授業の内容を。
「現国は七転び八起き、言語文化は体育あるある、文学は銀河鉄道の吾輩は失格である——」
たまらず噴きだすと、千葉は「え?」と笑った。
「どうしたの、吾輩。銀河鉄道で失格したの?」
「銀河鉄道の旅をするまでに恥の多い生涯を送ってきた吾輩が、飲んだくれるようになって、本当の幸せってなんだべなあって考えつつ、俺ってなんか間違ってきたなあって感傷に浸るんだよ」
「いやいや」
「なかなかまとめただろ?」
「全部の魅力が削ぎ落とされてる。これをよく文学のノートに描こうと思ったね」
「俺の最高傑作なんだけど」
「やめた方がいいよ」
「ちなみにこの吾輩は棒人間である」
「だろうね。千葉、ほかに描けるもんないだろ」
「ちょっ、いやさ、よく考えてみろよ。銀河鉄道のジョバンニはなかなか寂しい日々を送ってるだろ? みんなにばかにされてさ。猫の吾輩は最後、酒に酔って水甕に落ちちまうし、葉蔵は自分で自分を人間を失格してるって思うわけだろ? ほら、完璧じゃん、俺の話」
「なにが。だめだって、ああいうのは混ぜちゃだめなんだよ」
「いやいや、やっぱり想像力を働かせないとさ」
「方向を間違ってるんだよ。ジョバンニはジョバンニ、吾輩は吾輩、葉蔵は葉蔵。それじゃなきゃだめなんだよ」
「吾輩だって捨て猫だったわけだろ? 物語が始まる前にいろいろ恥かいてきたかもしれないじゃん。で、最後はあれだよ」
「人間を笑ってた奴に自分で失格だなあって思わないでほしいんだけど」
「この吾輩は棒人間だからさ」
「いや……うーん……」
「翻案ぱらぱら漫画だ」
一拍置いて、「俺はこれで稼ぐ」といった千葉に「絶対やめろ」と返す。
「……え、だめ?」
「各位に怒られるのはお前だよ」
千葉のぱらぱら漫画は英語のノートにまで描いてある。ぱらぱらせずにコマを見てみると、どうやら海外の文学作品をどうにかしてしまったらしい。
千葉のことだから、英語のノートというので日本以外の国の文学作品を使ったのだろうけれども、英語以外の言葉を使う国の作品の方が多い。
「気になる?」
「いや、特になにも」
「題名は、赤と黒と白と罪と罰」
「そりゃだいぶ鯨の影が薄いな」
俺はページの端に描かれた棒人間と、鯨と思しき巨大な生物を見おろした。主人公はこんなに戦っているというのに、題名には完全な二作の名前の間に、白としか入っていない。
「これ、俺の最高傑作な」
「棒人間の吾輩はどうした」
「その棒人間は——」
俺は右手を突きだした。「わかった、いわなくていい。わかった、大丈夫だから」
「そう慌てるなって。大丈夫、一捻りも二捻りもしてるから」
ぱらぱら漫画ではなく授業の内容のためにページをめくる。
「どうせこの棒人間、あまり褒められない恋愛をしてちょいと罪を犯し、海に飛びだしたんだろう」
「なぜわかる」
「題名がそういってる」
「でもあれだぞ、その棒人間、死刑にもならないし自首もしない」
「最低だな」
では白が生きてくるのか。道徳に反しながら助かるとは、千葉のやつ、とんでもないことをしてくれる。作品と作者への冒瀆だ。
「船と一緒に沈んでいくんだ。鯨がこいつに罰を下してくれるんだよ」
「まあそういうことなら……。でも明らかに原作は潰してるよな」
「そうか?」
「最悪だよ」
俺はちょっとふざけたくなって、息を吸いこんだ。
「やっぱり千葉、これで稼ぐんでしょ?」
「おう」
「まじでやめとけ」
「お前この流れ気に入ってたのかよ」と千葉が苦笑する。
「ごめん、ちょっと楽しかった」
まだ比較的ぱりっとしたノートを広げたままにして腰をあげ、文机から自分のノートを取りだすと、千葉が「おっ」と声を発した。見れば彼は大の字なりに寝転んでいた。
「漫画あるじゃん。水月も漫画なんて読むんだ」
「俺をなんだと思ってんの」
「気取り散らかした、いけ好かないおぼっちゃま」
「最悪だよ」と苦笑すると千葉もちょっと笑った。
「水月って辞書みたいに分厚い洋書とか読んでそうじゃん、しかも原文で」
「怪物かよ」
「そういう顔してるんだよ」
「西洋語のネイティブスピーカーみたいな?」
日本人離れしていると褒めてくれているのか、とふざけてみたのだけれど、千葉は「日本人のくせに難なく扱えそうな」とやんわり否定した。
「どういうの読むの?」と上体を起こす千葉に、俺は定位置へ戻りながら「貸してやらないこともないよ」と答えた。
千葉は膝で書棚の前まで移動し、並んでいるものを眺めた。
俺は、想像してみた通り閉じている千葉のノートを開き直し、そのそばで自分のノートも開いた。
「おっ、『モノノフガタリ』あるじゃん」
「まだ十九巻買えてないんだ」
俺の言葉に含ませたものを感じとったか、千葉は「今度持ってきてやるよ」といった。俺さまをここに閉じこめているのは心とかいうものらしい、といったのを憶えているらしい。
「まじで?」
「なんなら二冊買っちまったことにしてもいい」
「いや、それはいいよ」
「後から買ったのをわけてやる」
「自分で買うことに意味がある」
「なかなかこだわるやっちゃの」
しばらく、沈黙の中で俺は千葉のノートを書き写した。
「そういえば」といったのは俺の方だった。
「みんな、どうしてる?」
「どうって?」という千葉の声に、ページをめくる音が混ざった。
なんていおうかと悩んでいると、千葉が「うーん」とうなった。
「……みんな、気にしてるよ。お前のこと」
「……そうか」
「今日、昼休みにメールくれたじゃん」
ふと思いついてしまえば行動に移さなくては落ち着かないたちで、迷惑だろうと思いつつも、『余裕あるときに電話ちょうだい』とメールを送った。千葉はほんの数分後に電話をくれた。
「それでかなり盛りあがったんだよ。特に紅林が『花車、無事だったんだ!』つって」
色白で縦も横も小柄な、どこか中性的な雰囲気のある男、彼が無邪気にあげる声が聞こえてくるようで、無意識に頬が緩む。「無事だよ」とここから答える。
「で、紅林をいじめる谷本よ。『いや、これは重大ななにかを伝えるためのメッセージだ……!』とか脅しかけて」
「目に浮かぶよ」と俺は苦笑する。
千葉は「で」といって、「そんな……花車になにがあったの。重大ななにかってなに」とおろおろする紅林、
「なんで俺が知ってるんだ」といい返す谷本、
「余裕があるときっていってるんだから、そんなに急ぎの用じゃないんじゃないの」という沢木、
「にしても、ゲッツの体調不良ってなんなんだろう、ずいぶん長いよな」という小田崎、
それから「こんなにやかましくて余裕のあるときはない」という千葉自身を声で演じわけた。
「てな調子で、俺はお前に電話をかけた。そしたら、用件が『ノートを見せてほしい』ってもんだったから、少なくとも勉強に手をつけられるような状態ではあるってことがわかって、あいつらもちょっと落ち着いたって感じ」
「そうか」と答えながら、思わず笑ってしまった。ちょっと、嬉しかった。
「もうずっと前からこんな調子なんだけどさ、……あんまり、こういうこといわない方がいいかなと思ってたんだ」
「なんで?」
「プレッシャーっていうか、……なんか、全部煩わしいときってあるじゃん、そういうときだったら悪いなって……。せっかく家の場所は知ってるんだし、俺もずっときたかったんだけどさ、なかなか勇気出なくて……」
俺は友達の優しさを噛みしめた。「なんていい友達を持ったんだろう」
「大げさな」と笑う千葉に「本気だよ」と返す。
「早く……会いたいな」
みんなに、会いたい。当然のように外にでたい。
「放課後、なにするか」と、千葉が幸せな未来を描いた。
「ファミレスで勉強会」
「ドリンクバー頼んで」
「そうそう」
「店からしたらくそ迷惑な客になるやつね」
「たまに一番安いメニュー頼むから大丈夫」
「迷惑だなあ……」と千葉は笑う。「もうちょっと金落としていってほしいわ」
「厳しいなあ……」と今度は俺が笑う。「高校生のお財布事情はなかなかハードモードなんだから、もうちょっと優しく接してほしいよ」
「本当、財布って常に腹空かしてるよな。俺、最新巻に追いついてない漫画、三作あるからね。うち一作なんかは二巻遅れてる」
「夏休みくらいからバイトする?」
「倍率高そうだな……同じこと考えるやつ多いでしょ」
「じゃあちょっと前に? 『いつから入れる?』っていわれて、『あ、そっすね、そんじゃ夏休みからで』って、予約入れとくの」
「俺だったらそのしゃべり方で落とすわ」
「わかる」と俺が苦笑すると、千葉は「なんか苦手なのよな、その感じ」と笑った。
「でも堅苦しいのもどう?」と俺はいってみる。「『ええ、しかしながら私はこれをこのように考えるのです、これがこうでありますゆえ、なんとかさんのそれには……いささか——」
「ちょっと待てちょっと待て」と千葉が遮った。
「お前ふざけてるっしょ」
「いや、大まじめだとも」
「堅いっていうか、それ理屈っぽいだけじゃん。確かに嫌だけれども」
「なんとなーく、嫌ーな感じはするでしょ」
千葉はただ短く苦笑した。
週末、俺は下駄をつっかけて庭にでた。裏に回って、庭の手入れに使う道具を納めた古い木製の物置の扉に手をかける。
縦は俺の身長よりも高く百八十センチメートルほどあり、横は百センチメートルほど、奥行きは横と同じくらいの大きさだ。
もうちょっと小綺麗に保たれ、周りにブリキのじょうろや、俺ではなく花で飾った——ワゴンとでも呼びたくなるような——車という花車でもあれば、ヨーロッパの田舎の方に建つ爽やかな屋敷、その庭の一角といった雰囲気もだせそうなのだけれども、純和風の家屋の裏庭に設置されてしまえば、ただの古びた木製の小屋でしかない。
俺からすればかなり親しみやすい顔をしてくれていてありがたいのだけれど、もしかするとこれはもったいないことなのかもしれない。
俺は物置の中から高所用の枝切り鋏を取りだした。
表に戻り、花水木の枝へ鋏を向ける。慣れないなりになんとか適当な枝を掴み、刃先と連動している持ち手を握り、切りとった。ちょっと遠いけれどそのままおろした先に枝を置き、それを拾う。さくらやももにも似た淡い紅色の花のついた枝。
体勢を直したとき、「水月」と葉月の声がした。見れば、神楽笛を片手に縁側に立っていた。
俺が「おはよう」と答えて葉月の顔に浮かぶ笑みは物憂げで、切りとった枝に咲いたままのかわいらしい花が意味を持つ。
「庭いじり?」
「ちょっとね」
俺は普段よりずいぶん高いところにある弟の顔を見あげ、今しがた切りとった枝を差しだした。日常は花言葉なんて浪曼に満ちたものとは縁遠いものだけれど、庭に毎年咲くものに添えられた言葉くらいはと、いつか調べたことがある。
「これ、あげる」
これは返礼ではない。俺の気持ちだ。
「誕生日はまだ先だけど」
これは返礼じゃない。受けとってほしい、俺の気持ちだ。
「じゃあクリスマスプレゼントってことで」と俺は笑いかけた。
「もっと遠いな」と苦々しく笑って、葉月は俺の手から枝を、その枝に咲いた花に添えられた言葉を知りながら受けとった。もっとも、葉月の手に渡ったとき、その花がどんな言葉を持っていたかはわからない。
弟は俺よりも植物に詳しい。やがてこの縁側の先の一室は彼のものになる。葉月が植物を愛で、その愛らしさ美しさを人と味わう場所になる。
父がここでそうするとき、着物は和服だけれど、葉月がそうするときには、もしかしたら着物は洋服を着ているかもしれない。父は華道の家元なんかではないのだ。
趣味でほかの人と植物の魅力を味わっているだけなのだという。いってしまえば世間話のようなものだと。花って綺麗だよね、植物って見てると落ち着くよね、と。
葉月は枝に咲う花を見つめ、表情に静かな苦痛を滲ませた。
——これは、返礼じゃない。
「葉月」と愛おしい名前を呼ぶ。弟の表情から、静かな苦痛が少しだけ、色を薄くした。
「おまえのせいじゃないよ」
俺の気持ちだ——。
「……別に、なにも思ってないよ」
鳥のさえずる穏やかな静寂で、葉月から聞いた、彼の敬愛する田崎さんの口癖を思いだした。
「その嘘で、誰が笑う?」
葉月は黙って目を逸らした。
「笛、楽しい?」
葉月はなにも答えないで部屋の中へ入り、花器をひとつ手にとって、廊下へ出ていった。
戻ってきたかと思えば、常に石の上に置いてあるサンダルをつっかけてこちらにでてきた。そのまま植木鉢の並ぶ方へ向かっていく。
俺はそっと、しゃがんで作業する弟の後ろについた。
「ごめん、別に当てつけとかそういうつもりじゃなくて……」
「わかってる」という声には愛想のかけらもない。
見当たらない愛想を探すためではなく、「本当に——」と言葉をつづけると「わからないわけないじゃん」と語調が激しくなった。
不覚の怯みに震えた体の芯が落ち着いたとき、弟は目の前に立っていた。相手の目には、重たげな透明の膜が張っている。
「水月はそういうやつじゃない。わかってる。おまえのせいじゃない、大丈夫大丈夫っていってくれるやつだよ、優しいんだよ、うんっざりするほど残酷なんだよ」
弟のダムが決壊した音がした。激流の言葉がすべてを薙ぎ倒してあふれてくる。
「なんで俺を責めない! なんでただ一言『おまえのせいだ』といわない! なんでただ一言『悪かった』といわせてくれない!
腹の中じゃわかってんだろ、俺が余計なことをいわなけりゃ、おまえは今も普通の暮らしができてたんだよ!
怒れよ、詰れよ! 腹の中で燻ってんだろ、全部吐けよ! 『手前のせいだ』と、『許しはしない』といえよ!」
弟の嘆きはこちらへ届くころには激しい熱に溶け、その熱は俺の視界を、声を揺らした。
「……おまえのせいじゃないよ。……本当に、おまえのせいじゃないんだ」
「全部……俺のせいだろう……!」
「おまえのせいじゃないよ、葉月」
葉月が震えながらくずおれた。
「ごめん、……ごめん……水月……」
俺は足元に膝をつき、弟の体を腕の中に収めた。
ごめんね、頼りない兄ちゃんで。自分の気持ちもろくに伝えられない兄ちゃんで、ごめんね。
ありもしない罪を謝らせるような兄で、ごめんね。
こんなにも大切な弟の、普段なにを思っているのかにさえ考えの及ばない自分の愚かさが呪わしい。
腹の底からの『大丈夫』も『おまえのせいじゃない』も、力を持たないのなら——せめて。
「……明日、散歩に付き合ってくれないか」
「ああ」と小さな声がした。「どこまでも」と。
苦痛に濡れたかすかな声が、どうしてか俺に救いの手を差し伸べた。
その手を引くことも、その手に引かれることもなく、ただ手のひらを重ねたい。
しかし、理想の色というのは簡単にはでてこない。
わたしは油のにおいの満ちた部屋でごろりと寝転んだ。
あの試合から、一週間が経った。学校で花車には何度も会った——席が隣なものだから、嫌でも姿は視界に入ってくる——けれど、「なんてみっともない試合かな」とばかにすることも、「立派な試合だったわね」と嫌味をいうこともできなかった。
てらちゃんはといえば、あの日は告白をするといっていたけれど、一向に行動に移す気配がない。見ていて焦れったく思うわけではない。
立派にこれが恋だと宣言できるような経験はないけれど、気持ちはよくわかるつもりでいる。好きな人に好きだと伝えることに、とても勇気がいることくらい、わたしにだって想像できる。
本当に好きだと思う人に出逢えたら、そばにいるだけでも、姿が見えるだけでも落ち着けなくなってしまうんだろう。映画で、ドラマで、小説で、漫画で、そういう純粋で大切な感情を知っている。まるで自分のことのように知っている。
だから決して、てらちゃんを急かすつもりはない。
けれど、このままではちょっと、あのばか男との接し方がわからないというところではある。あのばか男のことが気に入らないのは今も変わらない。だからこそ、「立派な試合だったわね」と嫌味の一つや二つ、三つや四ついってやりたい。
あんなやつでも、大切な友達の好きな人なわけで、いくらわたしでも、大切な友達より気に入らないばか男に嫌味をいってやる方をとるほどのばかではない、そのジレンマ!
相手があいつじゃなければ、もっと立派な素敵な人だったなら、こんなふうに思うこともなかっただろうに。
深く吸いこんだ息をゆっくり吐きだすと、携帯電話が着信を知らせた。ごろりと転がってうつ伏せになり、上体を起こしてベッドまで膝で移動する。
着信はてらちゃんからだった。画面を操作して耳に当てる。
「なにしてるでやんすか?」と軽やかな声がした。
「ちょっと遊んでた、家で」
「暇でしょうがないんでやんす、付き合ってくれない?」
「うん、いいよ」
「ていうか、その……勇気、ないなあって……」
大丈夫だよ、といいかけて、その言葉の無責任さを思いだして飲みこむ。わたしは花車の、ほんの少しを知って、それを気に入らないと思っているだけだ。
どんな人が好きなのかとか、もしかしたらすでにいるかもしれない付き合っている人のこととか、なにも知らない。知らないままで、済んでしまっていた。
「やっぱり花車くんほどの人なんだし、すごいかわいい子が好きなんでやんすかね?」てらちゃんの声は、軽く感じさせるために色々なものを含んでいた。
「てらちゃんはかわいいよ」
「……花車くんも、そう思ってくれるかな」
「わたしは、そう思うよ」
あまりに曖昧な返答に、自分でもうんざりする。
翌日、わたしは画材とともに家をでた。
あのあとはしばらく話して、「きっと告白するよ」といったてらちゃんの背中を押して電話を切った。
何度か描きにきている公園は、日曜日ということもあってか混雑していた。「すみません、お邪魔しました……」と心の中で呟いて退散する。小さな子供や赤ちゃん、さらには動物までがいて、そのかわいさに胸の奥がぎゅんぎゅんした。本当、子供たちも動物も、なんてかわいいんだろう。というか、なんであんなにかわいいんだろう。
わたしは公園からしばらく歩き、小さな赤い橋に差しかかった。“恩愛橋”という、素敵な物語を想像してしまう名前で、その昔にはわたしの想像するような素敵な物語があったのかもしれないけれど、それは今日まで語り継がれることはなかった。
わたしは欄干から下を覗きこんだ。橋の下には、この橋が小さい通り、それほど広くない川が流れている。昔はこの川も流れていなかったのかもしれない。
いや、本当は昔からこの川は流れていて、川のこちらとあちらに離れてしまったきょうだいや夫婦、親子がいたのかもしれない。いろいろな困難を越えたのちにその二人は再会する。それにちなんで、恩愛橋。
いや、やっぱり昔はこの川はなかったのかもしれない。その時代に、二人がこの川のところで絆を確認する。けれどものちにここへ川を通すことになってしまい、その二人の絆が絶たれてしまうことのないようにと、架けた橋に“恩愛”と名づけた。
事実がなんであれ、図書館にでもいけばこの橋や川についての資料もあるのだと思う。けれども、事実というのはだいたい、というか当然に、わたし一人の好みに合わせて生まれるものではない。
資料を見てみても、わたしが想像するのとはまるで違う物語があるか、そもそも物語なんてないで、この橋にこの名前がついたかもしれない。
そんな赤い小さな恩愛橋を渡りきると、歩行者や自転車はちょっと右に曲がれるようになる。その先は急に道が細くなり、進んでいくとそのまま土手になる。車はもうちょっと先を右折することになる。
わたしは土手の真ん中辺りに荷物をおろし、準備を整えて小さな椅子に腰をおろした。
遠くに車が走っていたり、小さく見える歩道橋に人の姿が見えたり、動きのある町にとり残されたような、安らかな寂しさが心地いい。これをそのまま、カンヴァスに切りとれたなら、どんなに素敵だろう。
たった一本の河川を隔てただけで、世界はこんなにも変わる。あちらでは絶えず人がものが動いており、こちらではほとんどなにも動かない。
時折、後ろの民家がちょこちょこと建つ中にあるグラウンドから、木製バットがボールを跳ね返す軽快な音がするけれど、人の声はそれほど聞こえてこない。
テレビの中のような白熱した雰囲気はない。
どれくらいの年齢の人がそのグラウンドにいるのかわからないけれど、実際のこぢんまりした練習ではこういうものなのかもしれない。あるいは、ちょこちょこといっても民家が近くにあるものだから、気を遣っているのかもしれない。
本当のことなんていうのは、やっぱり想像では追いつけない。
ただ、わたしのいるここは静かで、遠い正面に見える町はよく動いていて、
わたしが今、その町にとり残されたような、ちょっと寂しいけれどどこか安らかな心地でいて、この心地を目の前のカンヴァスにじょうずに描き写したいと思っていることが、胸を張って本当のことといえること。
誰かには、わたしよりもいろんな音が聞こえて、別に町にとり残されたなんて感じることはないかもしれないけれど、わたしにはグラウンドから気まぐれに響く軽快な音くらいしか聞こえないで、遠くに見える絶えず動く町にとり残された心地がする。
わたしは絵描き用のエプロンのポケットからヘアゴムをとりだし、髪の毛を適当に結いあげた。
理想の色——。
会いにいってやろうじゃないの。
この先に待っているのは、白馬の王子さまかしら。
美しく悲しい鳥籠から救いだしてくれる幼なじみ?
いや、わたしは綺麗なところに閉じこめられたカナリアじゃなくて、自由気ままに空を舞い踊る野鳥だ。鳶ほど立派じゃなく、鳩のように平和を象徴するのでもない、多くの人が名前も知らない野鳥。特別に美しいわけでもなければ、害も益ももたらさない、誰に知られることもなく自由に空を舞う鳥。
わたしは深く息を吐きだした。
王子でも幼なじみでも、ミステリアスな魅力のある放蕩者でも、この先に待っているのなら会いにいってやる。笑ってしまうほど内気なその美しさを、このカンヴァスまで引っ張りだしてやる。
その内気さに振り回され、高まる会いたいにぞくぞくした。
会いたい、会えない。
会いたい、会えない。
いいや、会ってやる。
ふと、こんなものかと思ってのせてみた色に、体の奥から興奮が湧きあがってきた。
でた、でた……!
でた、これだ——!
できることなら絶叫したい。
深く吸いこんだ息をゆっくりと吐きだしながら、心の中で絶叫し、暴れ回る。
夢かもしれないと疑ってしまうほどの喜びの中に、からん、ころんと音がした。
あたたかい音がした。どこか懐かしい、音がした。
気分を落ち着けてそちらを見てみると、勝手に息が止まった。落ち着かせたはずの鼓動がまた激しくなる。
狂おしいほどの美しさが、そこにあった。
濃紺の着物、くすんだ緑の帯、白っぽい羽織。
髪は新月の夜を思わせる艶のある深い黒で、頬は、あるいはその人自身が満ちた月であるように白い。その月に、うさぎもかにも、読み物をする女性もいない。
その満月はどこまでもなめらかで、清らかで、ただその美しさを引きだすように、まつ毛の長い目と、すらりとした鼻、色水を滲ませた白い花びらのような唇が、激しい主張をしないままでそこにある。あくまで、その夜の美しさを引き立てるように。
その男性——年齢はわたしと同じくらいに見える——はいつの間にかすぐそばにいて、「なにをしているんだい?」と、優しい、深みのあるあたたかい声で、穏やかにいった。
「あ、えっと……絵を、描いてるの。油絵」
彼はわたしのすぐ隣に腰をおろすと、「風景か」と静かにいった。
「静かすぎずうるさくもなく、心地いい寂しさのあるところだね」
わたしはとても嬉しい気持ちになった。
「そうなんだよ。なんとなく、向こうの町に置いていかれてるみたいな、ちょっと寂しいの。でも嫌な感じじゃなくて……。この気持ちをそのまま描けたらいいなって思ったの」
一人で興奮しながら、ふと、彼の目がとても細いことに気がついた。まるでまぶたを閉じているかのように、細い。
もう少しぱっちりしていたらどんなに綺麗だろうと思ったとき、ふと気になって見れば、あのばか男の姿があった。
わたしは逃げるように、隣の彼に視線を移した。
「彼は知り合い?」
「ああ、弟だよ」と彼はなんでもないように答えた。
「いくつ離れてるの?」といい終わるより先に、花車——葉月——が「双子だ」と答えた。「二卵性のね」と隣の彼がつづく。
「俺はスイゲツ」と彼がいった。その名前には聞き憶えがあった。
「水の月って書いて、水月?」
「そう。だいたいミヅキっていう女性だと思われるけど、気に入ってるんだ」
「花車水月……」
ふと、葉月が「ひと回りしてくる」と水月くんに伝えた。「ああ、気をつけて」と水月くんが答える。