まだ比較的ぱりっとしたノートを広げたままにして腰をあげ、文机から自分のノートを取りだすと、千葉が「おっ」と声を発した。見れば彼は大の字なりに寝転んでいた。

 「漫画あるじゃん。水月も漫画なんて読むんだ」

 「俺をなんだと思ってんの」

 「気取り散らかした、いけ好かないおぼっちゃま」

 「最悪だよ」と苦笑すると千葉もちょっと笑った。

 「水月って辞書みたいに分厚い洋書とか読んでそうじゃん、しかも原文で」

 「怪物かよ」

 「そういう顔してるんだよ」

 「西洋語のネイティブスピーカーみたいな?」

 日本人離れしていると褒めてくれているのか、とふざけてみたのだけれど、千葉は「日本人のくせに難なく扱えそうな」とやんわり否定した。

 「どういうの読むの?」と上体を起こす千葉に、俺は定位置へ戻りながら「貸してやらないこともないよ」と答えた。

 千葉は膝で書棚の前まで移動し、並んでいるものを眺めた。

 俺は、想像してみた通り閉じている千葉のノートを開き直し、そのそばで自分のノートも開いた。

 「おっ、『モノノフガタリ』あるじゃん」

 「まだ十九巻買えてないんだ」

 俺の言葉に含ませたものを感じとったか、千葉は「今度持ってきてやるよ」といった。俺さまをここに閉じこめているのは心とかいうものらしい、といったのを憶えているらしい。

 「まじで?」

 「なんなら二冊買っちまったことにしてもいい」

 「いや、それはいいよ」

 「後から買ったのをわけてやる」

 「自分で買うことに意味がある」

 「なかなかこだわるやっちゃの」

 しばらく、沈黙の中で俺は千葉のノートを書き写した。

 「そういえば」といったのは俺の方だった。

 「みんな、どうしてる?」

 「どうって?」という千葉の声に、ページをめくる音が混ざった。

 なんていおうかと悩んでいると、千葉が「うーん」とうなった。

 「……みんな、気にしてるよ。お前のこと」

 「……そうか」

 「今日、昼休みにメールくれたじゃん」

 ふと思いついてしまえば行動に移さなくては落ち着かないたちで、迷惑だろうと思いつつも、『余裕あるときに電話ちょうだい』とメールを送った。千葉はほんの数分後に電話をくれた。

 「それでかなり盛りあがったんだよ。特に紅林(くればやし)が『花車、無事だったんだ!』つって」

 色白で縦も横も小柄な、どこか中性的な雰囲気のある男、彼が無邪気にあげる声が聞こえてくるようで、無意識に頬が緩む。「無事だよ」とここから答える。

 「で、紅林をいじめる谷本(たにもと)よ。『いや、これは重大ななにかを伝えるためのメッセージだ……!』とか脅しかけて」

 「目に浮かぶよ」と俺は苦笑する。

 千葉は「で」といって、「そんな……花車になにがあったの。重大ななにかってなに」とおろおろする紅林、

 「なんで俺が知ってるんだ」といい返す谷本、

 「余裕があるときっていってるんだから、そんなに急ぎの用じゃないんじゃないの」という沢木、

 「にしても、ゲッツの体調不良ってなんなんだろう、ずいぶん長いよな」という小田崎、

 それから「こんなにやかましくて余裕のあるときはない」という千葉自身を声で演じわけた。

 「てな調子で、俺はお前に電話をかけた。そしたら、用件が『ノートを見せてほしい』ってもんだったから、少なくとも勉強に手をつけられるような状態ではあるってことがわかって、あいつらもちょっと落ち着いたって感じ」

 「そうか」と答えながら、思わず笑ってしまった。ちょっと、嬉しかった。

 「もうずっと前からこんな調子なんだけどさ、……あんまり、こういうこといわない方がいいかなと思ってたんだ」

 「なんで?」

 「プレッシャーっていうか、……なんか、全部煩わしいときってあるじゃん、そういうときだったら悪いなって……。せっかく家の場所は知ってるんだし、俺もずっときたかったんだけどさ、なかなか勇気出なくて……」

 俺は友達の優しさを噛みしめた。「なんていい友達を持ったんだろう」

 「大げさな」と笑う千葉に「本気だよ」と返す。

 「早く……会いたいな」

 みんなに、会いたい。当然のように外にでたい。

 「放課後、なにするか」と、千葉が幸せな未来を描いた。

 「ファミレスで勉強会」

 「ドリンクバー頼んで」

 「そうそう」

 「店からしたらくそ迷惑な客になるやつね」

 「たまに一番安いメニュー頼むから大丈夫」

 「迷惑だなあ……」と千葉は笑う。「もうちょっと金落としていってほしいわ」

 「厳しいなあ……」と今度は俺が笑う。「高校生のお財布事情はなかなかハードモードなんだから、もうちょっと優しく接してほしいよ」

 「本当、財布って常に腹空かしてるよな。俺、最新巻に追いついてない漫画、三作あるからね。うち一作なんかは二巻遅れてる」

 「夏休みくらいからバイトする?」

 「倍率高そうだな……同じこと考えるやつ多いでしょ」

 「じゃあちょっと前に? 『いつから入れる?』っていわれて、『あ、そっすね、そんじゃ夏休みからで』って、予約入れとくの」

 「俺だったらそのしゃべり方で落とすわ」

 「わかる」と俺が苦笑すると、千葉は「なんか苦手なのよな、その感じ」と笑った。

 「でも堅苦しいのもどう?」と俺はいってみる。「『ええ、しかしながら私はこれをこのように考えるのです、これがこうでありますゆえ、なんとかさんのそれには……いささか——」

 「ちょっと待てちょっと待て」と千葉が遮った。

 「お前ふざけてるっしょ」

 「いや、大まじめだとも」

 「堅いっていうか、それ理屈っぽいだけじゃん。確かに嫌だけれども」

 「なんとなーく、嫌ーな感じはするでしょ」

 千葉はただ短く苦笑した。