カウンターの奥には小部屋があって、そこは独特なにおいがした。油彩絵具のにおいなのだと風巻さんはいった。

 ——風巻さん、なんてかわいらしく呼んでみても、彼は薫風堂でいい、なんていった。

けれどもわたしが素直に「薫風堂」なんて堅苦しい呼び方をするわけもなく、わたしは彼を「薫風堂のおいちゃん」と呼ぶことにした。

春風堂(、、、)だったら素直にそう呼んだかもしれないけれど。くんぷう、よりも、しゅんぷう、の方がやわらかくかわいらしく感じるから。

 薫風堂のおいちゃんがわたしにまず水彩をすすめようとしたのは、そのにおいも理由のひとつだったという。

 「わたしはこのにおい、嫌いじゃないよ」というと、おいちゃんは「変わってるな、嬢ちゃん」と笑った。

 「おいちゃんは嫌い?」と返すと、「どんなにおいより好きさ」と彼はいった。

 「俺は絵を愛している。もっとも、禁断の愛だけどもね」

 「ふうん」あいにくだけれども、比喩だとしてもわたしは禁断の愛というものには惹かれない。別に見せつけたいわけじゃないけれど、隠れなくてはいけないくらいなら愛さない。

 「人には褒められたものじゃない」とおいちゃんはいう。「だから人の目につかないところで、密かに秘めやかに、愛するんだ」

 わたしはポケットの中に飴玉が入っているのに気がついた。「あ、飴ちゃん」と声がでた。この間、友達にもらったものだった。

 部屋の中を見てみれば、いくつかの絵が置いてあった。

 「この絵は全部おいちゃんが描いたの?」

 「ああ」

 「綺麗じゃん。この恋人(、、)を貶す人がいたなら、その人は嫉妬したんだよ。自分が綺麗じゃないから、自分にはこんな綺麗な恋人がいないから」

 「お嬢ちゃんも俺と同じ道をくるのかね」

 その言葉の意味がわからないまま、わたしは「まさか」と笑い飛ばした。

おいちゃんは、俺の絵の魅力がわかるなら俺と同じ程度の絵しか描けないかもしれないとでも思ったか、もしかしたら、わたしが絵を綺麗だといったのを嫌味と受けとって、こっちへ落ちてしまえという意味でいったのかもしれない。いや、さすがにそれは考えすぎか。

 とにかく——。

 「何十万人、何億人に否定されようとも、わたしは諦めないよ。絵が描きたいならそう思う間は描きつづけるし、誰かを認めさせたいならその全員を心ゆくまで認めさせるまで描きつづける。

自分次第だよ。誰かに描いてって、どんなに丁寧にお願いされても、高圧的? まあ上から目線に命令されても、描きたくなければ描かない」

 「生意気なお嬢ちゃんだ」とおいちゃんはどこか楽しそうに笑った。

 「常連客に向かってそんなこといっていいの?」

 わたしがいい返すと、おいちゃんは木製の小さな、背もたれのない椅子に腰かけて、木製の三脚のようなものにカンヴァスを立てかけた。

 「それは?」と尋ねると「イーゼル、聞いたことない?」と返ってきた。

 「描くの?」

 「簡単に、道具の使い方を説明する」

 「それでおいちゃんの絵が完成するまでも見られるなんて、貴重だね」

 おいちゃんは照れ隠しなのか、ちょっと不快だったのか、鼻で笑った。