夕方、呼び鈴の音に玄関の戸を開けると、橙に焼けた初夏のもとに千葉が立っていた。帰り際、世界の誕生とともに会いにくるといっていた男だ。苗字の“千葉”以外の呼び方を——せいぜい“お前”くらいしか——決して受けつけない男。

 「世界ができたぞ」と彼は笑った。
 「そのようだね」と俺も笑い返す。

 前回のように座卓を挟んで座ると、千葉は「差し入れ持ってきてやったぜ」と鞄の中をあさった。

 「ほい」と座卓に差しだされたのはひとつの駄菓子だった。

 千葉は「詰め合わせを買ったんだ」と、改めて鞄をあさりながらいう。

 「六個入ってたから、ちょいどいいと思って」

 残りの五つは哲学を愛する沢木を筆頭に、友達とわけたのだろう。

 千葉は鞄から引きだした冊子類をどさんと座卓に置いた。

 「いやあ、この間はどうなるかと思ったけどさ、本当、元気そうでなによりだよ」

 「千葉もこの間より元気そうだ」

 千葉はちょっと迷うように黙ってから「まあな」と白い歯を見せた。

その無邪気な笑い顔と向かって右側にだけある八重歯がちょっとかわいいのだけれど、それを口にだせばどうなるのかは、なんとなくわかる。千葉は自分以外に向けられた声にまで反応するくらいには、“かわいい”に敏感だ。

 「水月に貸しを作れるなんてそうそうないからな。うっきうきよ」

 「ああ、今度ほかの駄菓子奢るよ」

 「えっ、そっち?」と冗談ぽくない反応を見せる千葉を笑うと、彼もちょっと笑った。

 「お前の方は大丈夫なの?」

 「ああ、そのノート全部、沢木のだから」

 「なにしてんの」

 「嘘。沢木のノート、絶対端っこにぱらぱら漫画なんか描いてないでしょ」

 一番上のノートをぱらぱらしてみると、棒人間が転んで起きてを繰り返した。

 「題名は『七転び八起き』だ」

 二番目のノートでは、棒人間が跳び箱で鉄棒で走りこみで、ことごとく失敗していた。

 「題名は『体育あるある』だ」

 「なに、全部把握してるの?」

 「自分で描いて忘れないだろ」

 俺はまず英語のノートの中身を見た。ぱらぱら漫画ではなく、授業の内容を。

 「現国(げんこく)は七転び八起き、言語文化は体育あるある、文学は銀河鉄道の吾輩は失格である——」

 たまらず噴きだすと、千葉は「え?」と笑った。

 「どうしたの、吾輩。銀河鉄道で失格したの?」

 「銀河鉄道の旅をするまでに恥の多い生涯を送ってきた吾輩が、飲んだくれるようになって、本当の幸せってなんだべなあって考えつつ、俺ってなんか間違ってきたなあって感傷に浸るんだよ」

 「いやいや」

 「なかなかまとめただろ?」

 「全部の魅力が削ぎ落とされてる。これをよく文学のノートに描こうと思ったね」

 「俺の最高傑作なんだけど」

 「やめた方がいいよ」

 「ちなみにこの吾輩は棒人間である」

 「だろうね。千葉、ほかに描けるもんないだろ」

 「ちょっ、いやさ、よく考えてみろよ。銀河鉄道のジョバンニはなかなか寂しい日々を送ってるだろ? みんなにばかにされてさ。猫の吾輩は最後、酒に酔って水甕(みずがめ)に落ちちまうし、葉蔵は自分で自分を人間を失格してるって思うわけだろ? ほら、完璧じゃん、俺の話」

 「なにが。だめだって、ああいうのは混ぜちゃだめなんだよ」

 「いやいや、やっぱり想像力を働かせないとさ」

 「方向を間違ってるんだよ。ジョバンニはジョバンニ、吾輩は吾輩、葉蔵は葉蔵。それじゃなきゃだめなんだよ」

 「吾輩だって捨て猫だったわけだろ? 物語が始まる前にいろいろ恥かいてきたかもしれないじゃん。で、最後はあれだよ」

 「人間を笑ってた奴に自分で失格だなあって思わないでほしいんだけど」

 「この吾輩は棒人間だからさ」

 「いや……うーん……」

 「翻案ぱらぱら漫画だ」

 一拍置いて、「俺はこれで稼ぐ」といった千葉に「絶対やめろ」と返す。

 「……え、だめ?」

 「各位に怒られるのはお前だよ」