私室で洋服に着かえ、脱いだ着物もまともにたたまず、スニーカーを履いて玄関をでた。

 靴底は石畳と、ぽとぽと歌う。春とすれ違うような爽やかだけれどもちょっと熱っぽい静かな風を吸いこみ、遠くの草花のにおいを嗅ぐ。

 窓枠に切りとられたのではない等身大の季節は、あの細道の上に戻ったような心地にしてくれる。

 俺はそっと、敷地の外のアスファルトへ足を踏みだした。ここはまだ、細道よりも奈落の方が近いところだ。

 大通りを避けるように左へ曲がる。黄色っぽい竹垣に囲まれた青竹の林が、風に揺れてからりころり、さらさらと笑う。

 この林は近所に住む造園業を営んでいる人のもので、仕事に必要なものを作ったりするためにこの竹藪を自分のものとし、手入れしているらしい。

その人とは父が親しく、うちの庭で話しこんでいるのをちょくちょく見かける。俺はその人との接点はほとんどなく、記憶にあることといえば父から聞いた名前が珍しいものだったというくらいだ。しかもその名前もぱっとでてこない。

 しばらく進み、家の周りを一周するようにもう一度左に曲がり、百メートルほど歩いたところで視界が全体に暗くなる。

 口の中で短く粗暴な言葉を呟き、足をとめる。片手で目元を覆い、しばらくして顔をあげてみても、見えるものは変わらない。昼の青空に、透けるほど薄く切りとった夜空を貼りつけたような視界は変わらない。

 どれだけ目を凝らしても、晴天に貼りついた夜空は晴れない。

 胸の奥がざわつくのを知りながら、一歩、また一歩と足を進める。短い一歩が重なるにつれて、青空に貼りついた夜空も重なっていく。右から左から、上から下から。

 実際の空は青く晴れやかなままだというように、視界の中央をおおよそ正常に残したまま、夜が重なっていく。

 重ねた一歩が懐かしく愛おしい場所に差しかかるころ、見えるのは、筒のようにした指の間を覗いたような景色だった。

 ふいに頭の中がぐらつき、靴底がごつごつしたアスファルトの上をじゃりっと滑る。

 支えを探す手がコンクリートの生あたたかさに触れた。それに半身を預けてしゃがみこむ。

 ぐらつく頭の中と一緒に揺れる体をコンクリートに押しつけるようにして、水の上を流れるような感覚の落ち着くのを待つ。

 自分の呼吸の音に「大丈夫、ですか」と女性の声が混ざった。自分のとは違う小刻みな呼吸も聞こえ、なんとなく動物のにおいもする。

 目を開き、声のした方を見あげるけれど、ほとんどなにも見えない。

 「水月くん」と女性の声が驚き、「岡田さん」と相手の名前を呼ぶ。小刻みな呼吸をする動物は岡田さんの家の大きな犬だ。垂れた大きな耳とつぶらな優しい茶色の目がかわいらしい、こたろう。

 「ど、どうしたの、こんなところで……。ああ、お、お母さん、おうちにいらっしゃるかしら」

 おろおろとしゃべる岡田さんに「大丈夫です」と答える。

 洋装ならではの、靴紐が解けた、といういい訳も思いついたけれど、自分がどんな顔をしているのか不安になって口にだすのはやめた。

 「具合悪いんじゃない?」という声に、コンクリートの支えを借りつつ立ちあがり、「もう大丈夫です」と答える。目はまだ指の間を覗きこんでいるし、体にはまだちょっと、ぐるぐる回ったあとのような感覚が残っているけれど、口角はあげられた。

 狭い視界の中にこたろうのかわいらしい姿を見つけ、その黄色っぽい淡い茶色の毛に手を伸ばす。指先で探ると、やわらかい毛の中に首輪らしいかたいものがあった。首元だと理解して、その辺りを両手でわしゃわしゃと撫でる。

 「こたろうがお散歩したくてうずうずしてますよ」

 わしゃわしゃとつづけていると、顎や首があたたかく湿らされた。こたろうの濡れた鼻がくんくんと高く鳴る。

 わんと短く声をあげるこたろうに「よしよし、いってらっしゃい」と返す。

 「大丈夫?」と不安そうにいう岡田さんに、俺はその優しさを受けとりつつ「天使の香水がつきました」と笑い返す。

 岡田さんはなにやらごそごそと音を鳴らし、「はい」となにかを差しだしてきた。なんとか認めたのは、白いタオルのようなものだった。

 「ウェットティッシュ。ごめんね、水月くんに会うといつもこうで」と岡田さんの声は困った調子で笑う。

 俺は「こんな嬉しいことはないですよ」と答えてそれを受けとった。

 散歩を再開する二つの足音を耳で送り、受けとったウェットティッシュでこたろうのにおいを拭きとる。