かすかな残響を香らせてやんだ葉月の音から逃げるように私室へ向かった。


 ふと、顔の辺りに触れるものを感じてまぶたを開いた。「起きた」と葉月の声がした。

 「夕飯どうすんのって、母さんが」

 見れば、自分は縁側で横になっていた。頭の下には半分に折った座布団を敷いていた。

 体を起こすと、まだわずかに弾力を残していた座布団がゆっくりと元の形に戻った。体からはらりと離れるものがあった。ブランケットだった。

 そうだ——葉月が隣の部屋にきたのが聞こえて、ここへきたのだった。外にある、あたたかく広大な初夏の世界が恋しくなって、庭の植物を眺めた。しばらくして座布団を枕にして横になった。

 ぼんやりしているうちに眠っていたらしい。

 「気をつけなよ」と葉月が笑った。

 「寝姿なんか晒しやがって、無防備なやつだ。襲撃されても知らないぞ」

 「俺ってそんなに敵多そうに見える?」

 「そりゃあ、もう」となんでもないようにいう弟に苦笑する。

「あっちからジャッカルが、そっちからハイエナが、こっちからはジャーマン・シェパードが狙ってそうだ」

 「警察犬に狙われる憶えはないな」

 「野生動物なら受け入れるわけか」

 「ばかをいうな、冗談じゃないよ」

 葉月は愉快そうに笑って、「夕飯どうすんのって、母さんが」と改めていった。

 「俺が食事に関心を持たなくなったら、そのときには数日以内に世界が終わると思った方がいい」

 俺はそう答えて立ちあがった。「世界はもうちょっと続くみたいだな」と葉月はいった。

 「水月はもうちょっと、ジャッカルにもハイエナにもジャーマン・シェパードにも狙われ続けるわけだ」

 「やめろって」と俺は苦笑する。「泣く(、、)よ」

 「シェパードが?」

 「俺が。犬は鳴く(、、)っていうより吠えるってイメージでしょうが」

 「おお、吠えてる吠えてる」と葉月は愉快そうに笑う。


 献立は、かつおのたたき、たけのこの煮物、卯の花の炒り煮、菜の花とたけのこと、とうふの吸い物、白米というものだった。

 座卓に着いて、そっと手を合わせて箸を持つ。

 「そういえばさ」と母がいった。

 こんもりと盛られた白米を頬張った俺の隣で、葉月が音を立てて吸い物を啜った。

 「誰か洗剤のボトル動かした?」

 汁椀を口に当てたまま、葉月が「なんの洗剤?」と尋ねる。

 「洗濯の。なんか、どっかいっちゃったのよね」

 「俺はいじってないよ」と葉月。「へたなことをすると怖いから」と笑う次男を母は鋭く睨む。

 俺は吸い物を啜り、さらに一口白米を頬張った。ゆっくり食べなさいとかお行儀(、、、)が悪いとよくいわれるけれども、どうにかするつもりはない。

食事はものをおいしく食べる行為で、誰かにお行儀(、、、)のいいやつだと思ってもらうための試験ではない。箸先半寸、長くて一寸、知ったものか。

 「あ」と声を発したのは父だった。「洗剤か。中身が少なかったから足して……どうしたっけ」

 「探しなさい」という妻の低い声に、彼は「ただいま」と食器を置いて座卓に手をついた。夫のそれを、妻は「食事中にいく者がありますか」と(とが)める。

 母は小さく息をついた。「二人はお父さんに似たんだわ」

 「俺ほど行儀のいい子はいない」という葉月に、母はちょっと困った顔をしてかたまる。「なんでだよ」と葉月は苦笑する。

 「俺たちだってどこでもこんな調子ってわけじゃない」と俺がのっかった。

 「よそではちゃんとかわいくできる」とつづけて食器を置き、女性が恥じらったり拒んだりするように袖で顔を隠し、「うちでくらい、自由にさしておくんなまし」とふざけると、母は心底呆れた様子で息をついた。天井を仰いで目をぐるりと回す。

 「もう……好きになさい」という声には深すぎるほど、濃すぎるほどの諦めの色が滲んでいた。