「葉月」と湯の(おもて)からでている肩に触れると、激しい拒絶に湯がばしゃりと揺れ、飛びだしたものがびしゃりとタイルを叩いた。

 鼻をすする音がした。

 「みんな、大嫌い」といった声はすっかり涙に濡れていた。

 俺は黙って、弟の言葉のつづくのを待った。

 「俺じゃない」と葉月はいった。

 俺は「なにがあったの?」と、努めて穏やかな声で訊いた。俺が友達と喧嘩して、謝る勇気がだせずに、眠る前にぐずぐずしたとき、母がかけてくれた声の調子をまねた。

 「田村のシャーペンがなくなった」

 「うん」

 葉月はしばらく黙りこんでから、「俺じゃない」と呟いた。

 俺は葉月の双子の兄だ。映画や漫画で特別なもので結ばれていると描かれるような、顔も性格もそっくりな双子ではない。顔も性格も違う、生まれ年の違うきょうだいのような双子、その兄だ。

 それでも、弟がなにを訴えたいのかはわかった。

 「俺じゃないのに……」と震える声に、俺は「わかったよ」と答えた。

 湯の面からでて乾いた肩に、俺は手でそっと湯をかけた。それから触れたとき、今度は湯が飛びだすことはなかった。

 「葉月はそんなことしない」

 兄だからじゃない、家族だからじゃない。けれど、葉月は人のものをとるより、人にものを差しだす方の人間だ。

 「ちゃんとわかってる」

 葉月はくしゃくしゃの顔をこちらに向けた。新しい涙がびしょびしょの頬を伝う。

 「水月がわかっても……っ」

 「ひどいなあ」と笑い返しながら、俺は弟の頬を次々濡らす涙を、湯で濡れた手で拭った。

 「葉月が大丈夫って思えなくても、俺は葉月を信じるよ」

 葉月は顔をさらにくしゃくしゃにして、唇をひん曲げて、声を殺して泣いた。

 「学校、いきたくない」という声が大きく響いた。

 「大丈夫だよ。わからず屋がなんかしてきたら、俺を呼んでよ」

 弟はぶんぶんと首を振った。恥ずかしくてできない、という意味か、もしかしたら、今日は一人で風呂に入るとお化けがでる気がするなどという兄は、とても頼れたものじゃないという意味だったかもしれない。

 「声にださなくていいよ。ただ、『水月』って思ってくれればいい。俺は絶対助けにいく」

 あまりに大げさで、無責任な言葉だった。助けるといったって、実際にシャーペンがどのようにどこへいったのかわからないのだし、本当に誰かがとったのだとしたって、それが誰なのかわからない。

それでも、葉月が自分に助けを求めたとき、必ずどうにかできる自信があった。

過去に約束されたわけじゃなければ、未来に約束できるわけでもない、俺が勝手にあるといっているだけの自信だ。けれども約束がないぶん、その自信には責任があった。

 「大丈夫。泣くことないよ」

 ひぐひぐと喉を鳴らす泣き顔が苦しくて、必死に母の優しさをまねた。湯からでていた肩をあたためるように弟を抱きしめた。年齢はまるで変わらないはずなのに、腕の中の弟がとても小さな子供のように思えた。

 「大丈夫、大丈夫。俺は葉月を信じてるよ」

 だから葉月も俺を信じて、とは、ちょっと恥ずかしくていえなかったけれど、伝わったはずだと信じた。