扉は、漫画やアニメにでてくる駄菓子屋さんのような、木枠に縁取られた硝子の引き戸だった。
がらがらという音の割に建て付けは悪くなく、戸はスムーズに動いた。
「いらっしゃい」と、壮年というには大人っぽいような、けれども老年というには若々しいような調子の男性の声が迎えてくれた。
店内の薄暗さには、痛いほど眩しい空に慣れた目は驚いたけれど、その空に響く蝉しぐれが汗に変わり、ティーシャツや髪の毛の先が張りついた肌は心地よく感じた。
「こんにちは」といいながら、目が慣れてきた。
声の主——お店の主でもあるのだろう——の男性は、銀にも似た独特の色をした短髪が似合い、若い頃はとても格好よかったんじゃないかと思わせてくれる雰囲気があった。
「見ない顔だね」と男性はいった。「冷やかしかい?」
ちょっとむっとしたのを押し流して、「ええ、そうです」と答える。
「絵とか全然わからないんですけど、手をだしやすいのってどんな感じですかね。水彩とか油彩とか」
男性は優しく笑うと、よっこいしょとでもいいそうな様子で立ちあがった。会計のカウンターがあって見えないけれど、椅子から立ちあがるようだった。
「水彩の方が、道具も安く揃うよ」
「そうなんですか」
「小学生?」といわれ、「中学生です」と即答する。ちょっとずつ失礼なのは、この人なりの親しみやすさの演出なのか、ただの素顔なのか。
もうひとつの可能性——初めてお店に顔をだしたわたしのことが気に入らないなんていうの——は考えない。
「水彩は、ほら、学校でもやったでしょう」
「そうですね。じゃあ、油彩にします」
「そうか」とうなずいてから、男性は「ん?」と声を漏らした。
「水彩は学校でもやったので、油彩にします」
「ああ……そう。おもしろいね、お嬢さん」
「時本です」
「今後とも御贔屓に」と、男性はにやりといった感じで笑う。
わたしは男性から店内に並ぶ品々に視線を移した。
「油彩画……に使うものって、どれですか?」
「ちょうどお嬢ちゃんが見てるあたりだよ」
「ふうん……」
よく見てみれば、なにやらいろいろなものが並んでいる。ぱっと見て、ああパレットだな、ああ絵筆だなとわかるものから、よくわからない液体の入ったボトルまで置いてある。
「ああそこ」と声があがり、咄嗟に半歩、後ろへ下がった。
「なんです、急に」
「そこに箱があるだろう」
「箱?」
何色のー、とか木製のー、鉄製のー、といってくれなくては困り果てる。
「下」といわれてその通りに視線を動かすと、確かに箱があった。具体的には、木製の茶色の箱。
「ええ、茶色の箱ですね」
「それで小物は全部揃うよ。上に並んでる、筆とかナイフとか。絵具もガヨウエキもある」
ガヨウエキ、のうち、エキには液の字を当ててみる。
それなら確かに、棚の上の方に液体の入ったボトルが並んでいた。それを手にとって観察してみれば、ラベルに「画溶液」の三文字が見られた。
絵を溶く液……? ああ、間違えたときに直せたりするのかな。マニキュアの除光液みたいな。
「絵具に適量混ぜて使うんだ。絵具の伸びだけじゃなく、色気の調節とか、まあなにかと活躍するもんだよ」
「消すんじゃないんだ?」
「まあいい、とりあえずそれを持っておいで」
男性は咳払いをすると、声を張った。
「この天才・風巻薫先生が油彩を教えてやる」
勝手に漢字を当ててしまったけれど、カザマキカオルという名前が本当に風巻薫と書くのかはわからない。けれどもそうでなければ薫風堂の名前の由来がわからないので、そういうことにしておく。この男性は風巻薫さんだ。
「絵、教えてるの?」
「これでも画家を目指したもんでね。残念ながら、時代が俺に追いついてこなかった。だからすっと身を引いて、若葉たち、新芽たちを育てる方に回ったのだよ。画材がなけりゃ才能があっても描けない」
「わからず屋の時代をも惹きつけるほどの絵を描いてやればよかったのに」
「そりゃあ初めはそのつもりだったさ。でも天才というのはそうそう丈夫な精神を持っちゃいない。趣味なんて便利な言葉もあるしね、多くの天才がその言葉に救いを求めたことだろうよ」
「格好いいこといってるつもり? ただ諦めただけじゃん」
「そうだとも。でも諦めたから見られる景色もある。俺はそれを選んだってだけだ。もちろん、諦めずにつづけなけりゃ見られない景色もある。そのどっちを選ぶかくらい、それくらいの自由はあってもいいだろう?」
わたしは棚から木箱を手にとり、カウンターの向こうにいる男性の元へ向かった。
がらがらという音の割に建て付けは悪くなく、戸はスムーズに動いた。
「いらっしゃい」と、壮年というには大人っぽいような、けれども老年というには若々しいような調子の男性の声が迎えてくれた。
店内の薄暗さには、痛いほど眩しい空に慣れた目は驚いたけれど、その空に響く蝉しぐれが汗に変わり、ティーシャツや髪の毛の先が張りついた肌は心地よく感じた。
「こんにちは」といいながら、目が慣れてきた。
声の主——お店の主でもあるのだろう——の男性は、銀にも似た独特の色をした短髪が似合い、若い頃はとても格好よかったんじゃないかと思わせてくれる雰囲気があった。
「見ない顔だね」と男性はいった。「冷やかしかい?」
ちょっとむっとしたのを押し流して、「ええ、そうです」と答える。
「絵とか全然わからないんですけど、手をだしやすいのってどんな感じですかね。水彩とか油彩とか」
男性は優しく笑うと、よっこいしょとでもいいそうな様子で立ちあがった。会計のカウンターがあって見えないけれど、椅子から立ちあがるようだった。
「水彩の方が、道具も安く揃うよ」
「そうなんですか」
「小学生?」といわれ、「中学生です」と即答する。ちょっとずつ失礼なのは、この人なりの親しみやすさの演出なのか、ただの素顔なのか。
もうひとつの可能性——初めてお店に顔をだしたわたしのことが気に入らないなんていうの——は考えない。
「水彩は、ほら、学校でもやったでしょう」
「そうですね。じゃあ、油彩にします」
「そうか」とうなずいてから、男性は「ん?」と声を漏らした。
「水彩は学校でもやったので、油彩にします」
「ああ……そう。おもしろいね、お嬢さん」
「時本です」
「今後とも御贔屓に」と、男性はにやりといった感じで笑う。
わたしは男性から店内に並ぶ品々に視線を移した。
「油彩画……に使うものって、どれですか?」
「ちょうどお嬢ちゃんが見てるあたりだよ」
「ふうん……」
よく見てみれば、なにやらいろいろなものが並んでいる。ぱっと見て、ああパレットだな、ああ絵筆だなとわかるものから、よくわからない液体の入ったボトルまで置いてある。
「ああそこ」と声があがり、咄嗟に半歩、後ろへ下がった。
「なんです、急に」
「そこに箱があるだろう」
「箱?」
何色のー、とか木製のー、鉄製のー、といってくれなくては困り果てる。
「下」といわれてその通りに視線を動かすと、確かに箱があった。具体的には、木製の茶色の箱。
「ええ、茶色の箱ですね」
「それで小物は全部揃うよ。上に並んでる、筆とかナイフとか。絵具もガヨウエキもある」
ガヨウエキ、のうち、エキには液の字を当ててみる。
それなら確かに、棚の上の方に液体の入ったボトルが並んでいた。それを手にとって観察してみれば、ラベルに「画溶液」の三文字が見られた。
絵を溶く液……? ああ、間違えたときに直せたりするのかな。マニキュアの除光液みたいな。
「絵具に適量混ぜて使うんだ。絵具の伸びだけじゃなく、色気の調節とか、まあなにかと活躍するもんだよ」
「消すんじゃないんだ?」
「まあいい、とりあえずそれを持っておいで」
男性は咳払いをすると、声を張った。
「この天才・風巻薫先生が油彩を教えてやる」
勝手に漢字を当ててしまったけれど、カザマキカオルという名前が本当に風巻薫と書くのかはわからない。けれどもそうでなければ薫風堂の名前の由来がわからないので、そういうことにしておく。この男性は風巻薫さんだ。
「絵、教えてるの?」
「これでも画家を目指したもんでね。残念ながら、時代が俺に追いついてこなかった。だからすっと身を引いて、若葉たち、新芽たちを育てる方に回ったのだよ。画材がなけりゃ才能があっても描けない」
「わからず屋の時代をも惹きつけるほどの絵を描いてやればよかったのに」
「そりゃあ初めはそのつもりだったさ。でも天才というのはそうそう丈夫な精神を持っちゃいない。趣味なんて便利な言葉もあるしね、多くの天才がその言葉に救いを求めたことだろうよ」
「格好いいこといってるつもり? ただ諦めただけじゃん」
「そうだとも。でも諦めたから見られる景色もある。俺はそれを選んだってだけだ。もちろん、諦めずにつづけなけりゃ見られない景色もある。そのどっちを選ぶかくらい、それくらいの自由はあってもいいだろう?」
わたしは棚から木箱を手にとり、カウンターの向こうにいる男性の元へ向かった。