こういうものならわたしにも作れると思ったわけではないけれど、美術展をでてから、わたしはなにか、描いたり作ったりしたくてたまらなくなった。

うずうずするような、体の奥の方に熱がたまっているような、なんともいえない、落ち着かないのに心地いい気分になった。

 帰りの電車に揺られながら、お父さんに「残ったお金は好きに使っていいよ」といわれたのを思い出した。

時間のせいなのか、電車内はわたしひとりがすみっこに座っても誰も困らないような調子で、わたしは座席に座ってバッグの中をあさった。財布と携帯電話しか入っていない、空きスペースが多いバッグの中。

 財布をとりだして、残ったお金を確認する。まだ結構残っていた。これくらいで始められるものはなにかないかなと考えて、あれやこれやと想像していくうちに、真っ白なカンヴァスと絵筆が見えた。

 絵、か……。

 なにを描くか、どんなふうに描くか。そんな難しいことは、筆を持ってから考えればいい。

 家の近くに画材屋さんがある。「春風(しゅんぷう)堂」といったかな。家に向かう前にそこへ寄ってみよう。

 ふと頭の中に流れてきた曲を口の中で歌っていると、視線を感じた。見れば、隣に座っていた女性に抱かれた赤ちゃんが、あやすように揺らされながらこちらを見て笑っていた。大きくきらきらなおめめにぷるぷるのおくち。とんでもなくかわいい。

 口に含んだ空気を右頬へ左頬へと動かしてみると、赤ちゃんは笑ったまま、けれども興味なさそうにあちらを向いてしまった。ああ気まぐれ! なんてかわいい。わたしは前を向き直り、必死に唇を噛む。どうしよう、にやにやがとまらない。

 なんとか無事に電車をおりると、わたしは家に帰るのとは反対方向へ進んだ。「春風堂」へ向かうのだ。

 周りに人もいないので、頭の中に戻ってきた曲を口ずさむ。

 車がすれ違うのは難しそうな細い道に入り、歌いながら足を進める。この先に画材屋さんがあることは、友達と遊んでいるときに知った。小学生の頃だった。

 画材屋さんと背中を合わせるような形でコンビニがあり、わたしはいつも、そのコンビニへは大通りを通っていくのだけれど、ある日、友達とこの道を通っていった。

それで、なにやら古そうなお店が正面にどんと現れて、右に曲がってから、さあ……なんだろうね、なんて返事を想像しながらも「あのお店、なに屋さんなんだろうね」と訊いてみると、「ガザイヤさんだよ」とさらりと返ってきた。

 「ガザイヤ? 願望?」

 「それデザイア。絵を描く道具を売ってるんだよ。絵画の画に、材料の材、お店の()

 「いったことあるの?」と訊くと、歳の離れたお姉さんのいるその友達は「お姉ちゃん、美術部でさ」といった。この頃でもう、そのお姉さんは高校生だった。

 「近くに画材屋さんなんてあそこしかないから、たまに……? いや結構……? まあ、一緒にくるんだよ」

 「へええ」

 思い出の画材屋さん、「春風堂」が近づき、わたしは足をとめた。

 ——いざ!

 建物の上に掲げられた、建物と同じように古そうな看板を見あげる。

 「薫風堂」。

 え?

 一度足元へ視線を落とし、もう一度見あげても、やはり刻まれた文字は「薫風堂」。

 「薫風(くんぷう)堂……?」

 春ではなく、初夏に吹く風でした。