部屋を満たす水彩絵具のにおいが心地いい。においのほとんど消えた畳に横たわり、俺は水月が描いていく絵の音を聴く。“本物”のできあがっていく音。

 水月が絵を描く間は、なにも話さない。話してはいけないなんてことはないけれども、水月がこの時間を大切にしていることは知っている。

だから、俺は決して絵の音を聴こうとはせず、耳に入ってくるものをそっと味わう。自然に繰り返す呼吸に滑りこんでくる絵具のにおいを楽しむ。

 ふと、「葉月はさ」と水月がいった。俺はちょっと驚いて、背中越しに彼を見た。

 「高校にいっても卓球つづけるの?」

 「……なんで、急に」

 「ちょっと気になったんだよ」

 俺は腕に頭をのせ直して、「つづけるよ」と答えた。

 「そう」といった水月の声は穏やかだった。

 「おまえは? 美術部にでも入って、素人どもを絶望させてやる?」

 「なんで俺が入ったらみんなが絶望するの」と水月は笑う。

 「誰も越えられないからだよ」と俺は自分の寝転んでいる畳を見つめて答える。

 「誰を?」

 「おまえを」

 「ばかな」と水月は笑う。

 「どっちがだよ」と俺は真剣に返す。「いってんじゃん、おまえのは本物だって」

 「本物も偽物もないでしょう」

 「おまえの絵が一番だよ」

 「……じゃあ、葉月は自分より強いと思う人はいないの? 卓球だよ」

 「いるよ」なんで、とつづけようとも思ったけれども、結局は飲みこんだ。なんでそんなことを訊くのかなんてこちらから促さなくたって、勝手に向こうから話してくれるはずだと思った。

 「それと同じだよ」と水月はいった。

 「なにが」

 「俺は葉月ほどすごい人はいないと思ってる。でも実際には、その葉月が強いと思う人がいる。俺がそう思っても、実際には葉月は一番強い人ってわけじゃない」

 「……俺が水月を買い被ってるって?」

 「そうだよ。俺は別に……うん、絵がうまいわけじゃない。美的センスが優れてるわけでもない」

 「まあ確かに、虫をかわいいとかいうくらいだしな」

 「絵なんて、結局は自己満足の世界だと思うんだよ。自分が描きたいものを描きたいように描く。他人の評価なんて、本当は必要ないんだよ」

 「でも他人の評価がなけりゃ、仕事にならない」

 「仕事にする必要はないじゃない。俺は顔も知らない人の好みに合うものを探り探り描くより、目の前の一人に向けて描きたい」

 俺は単刀直入にいった。「コンテストとか、ださないわけ?」

 「どうせ当然のように蹴落とされるだけだよ」

 「わからないだろ。お前のは本物だ、それが認められないなら、見る側の目が紛いもんなんだよ」

 「本物も偽物もないよ。……コンテストなんてさ、娯楽のひとつなんだよ」

 いつもと変わらない気取った声の、いつもとは違う冷酷な言葉が、俺の胸の奥に激情の種を蒔いた。その成長は怖いほど速く、俺の胸の奥にある小さな器の中で大木になった。生い茂る葉が底に影を踊らせる。

 振り返ってはいけない、水月を見てはいけないと自分にいい聞かせる。永遠につづくはずの愛おしいものが、壊れてしまうかもしれないからだ。俺は努めて、自分の寝転ぶ畳の一点を見つめた。

 「娯楽……?」

 動くな。
 動くな。

 動いては、いけない。

 「ゲームみたいなものじゃない。——あの人がその人が絵を描いた。誰がうまいかな、この人はどう? いいやこの人も……。結果発表、何某(なにがし)在住の某右衛門(ぼうえもん)さんが一等上手です、って」

 いつもと変わらない気取った声の、いつもとはちょっと違う気取った話し方が、胸の奥の大木に肥料をやる。

 落ち着け。
 落ち着け。

 水月は今、絵についてこういっているだけだ。

 俺とはなにも関係がない。先輩とも関係ない。

 スポーツとは、卓球とは、一切、関係はない。

 「誰が優れてるとか、金とか銀とか、なにももらえないその他大勢とか、そんな運みたいなものに一喜一憂したくないんだよね」

 畳の上で、震えるほど強く手を握りしめる。

 見るな、見るな。

 振り返っては、いけない。

 年齢よりも長い十か月に、水よりも濃い血に、水がなれない血に、甘えてはいけない。

 「俺は……」ちょっと、声が震えた。水なら感じなかったかもしれない。血は感じたかもしれない。

 「俺は、するぞ、一喜一憂」

 運なんかじゃない。勝敗は、結果は、運じゃない。

 「運も実力のうち、ってね」と水月がいった。ちょっと笑ったようにも聞こえたその声は、いつもの水月らしさを滲ませていた。

 絵筆がバケツに入れられる音がした。

 さっきの声、水に似たところから感じた濃い血のにおいに、手の震えが少しずつ落ち着いていく。

 「葉月」と、いつもとなにも変わらない水月の声がした。「本物(、、)だ」と。