水月への授業が終わって部屋に戻ると、懐かしい心地に襲われる。ふと冷静になった瞬間に訪れる、幻覚。

 眠れない夜と起きられない朝、そのそれぞれの中心に、寺町がいる。

 「花車くん」と呼ぶ声、話すときによく髪をいじる指先、忙しなく動く、くりっとした目。ふわふわとスカートの裾を揺らして歩く細い脚、靴から覗く、きゅっと目立ったアキレス腱。かわいらしい笑み、たまに飛びだす「やんす」。

 そのすべてが、かわいらしい。

 真っ暗な天井を眺めて、息をつく。

 眠れない。

 眠ろうとすればするほど、あの無邪気な声が、折れないかと不安になるような細い指先が、大きな目が、かわいらしく揺れるスカートの裾が、ものを食べるときの大きな口が、鮮明に思いだされる。

 ふと、大きな口を開けてそこに直接注ぎこむような飲み方が思いだされて、思わず噴きだす。

 いつかたまらず「豪快な飲み方するよな」といったとき、彼女は思いだしたように細い手で口元を隠した。頬が赤くなっていた。それを指摘して、「そんなに苦しいなら口つければいいのに」といったら、背中を叩かれた。それほど強くはなかったけれど、ちょっと痛かった。

 寺町は「苦しいんじゃなくて、恥ずかしいの」と拗ねたようにいった。それから、「前にテレビで見たんだよ」といった。「口をつけて飲むと、いっぱい菌が繁殖するって」と。「直接口をつけるより、ましかなと……思って……」とだんだんと声が小さくなっていった。

 「変だよね」と困ったように笑う彼女に、思わず「いや、かわいいよ」といってしまった。

 思いだした途端こちらが恥ずかしくなる。ごろりと体の向きを変え、枕に顔を埋める。さらに、「やだな、調子にのっちゃうよ」という寺町には「いいじゃん」といった。

寺町には「変な人だね」と笑われた。こうして思いだすと恥ずかしくてしょうがないけれども、よくあれで済んだものだとも思う。もちろん、寺町にとって、気持ち悪いと顔を顰めることより、変な人だねといって笑うことの方が強い攻撃である可能性もある。

 ああ、忘れたい。できることなら消えてしまいたい。

 嫌だ。どうか寺町が忘れていますようにと必死で願う。