お茶を淹れて戻ると、水月の穏やかな声が「ありがとう」と迎えた。「三百五十円ね」といって差しだすと、「おっと」と彼は笑った。
彼の描きかけの絵を見て「進んでるね」といってみると、「ちょっと自信がついた」と彼はいった。
「自分の絵にお金をだしてくれる人がいるなんて、思わなかった」
「本当……すごいことだよね」
「途端に、許されたような気がした」
「許される?」
水月は静かに、唇にあてたカップを傾けた。その姿に、なんとなくどきっとする。描いてみたい、と思う。
「自分に、価値がついたような気がしてるんだ」
「今まではなかったの?」
「一次も通らないしさ、自分の描いてるものなんて本当に、子供の落書きみたいなものなんだろうと思った。実際、落書きみたいなものだったし。葉月とはなが褒めてくれて、嬉しかったんだけど、……正直いうと」
水月は悲しげに微笑み、「ずっと怖かった」といった。
「ひどい嘘をついてるみたいな気分だった。知られたら全部が壊れちゃうような、全部が終わっちゃうような、許されない嘘。俺はすごくなんかない。すごくなんかないのに、すごい人のふりをしてる。そうやって、葉月とはなを騙してる。もしもそれが知られたらと思うと、ちょっと……」彼はゆるりとかぶりを振った。「すごい、怖かった」
短い沈黙を埋めるように、水月はまたカップを傾けた。
「葉月に幻滅されるんじゃないか、はなといられなくなるんじゃないか。怖くてしょうがなかった」
「ばか」とは無意識にでていた。
「それじゃあ、水月が絵を描く人形みたいじゃん。楽しい会話ができるわけじゃない、笑ってくれるでもない、話を聞いてくれるでもない、それなら、確かに綺麗な絵くらい見せてよってなるかもしれないけど、そうじゃないでしょ。
水月の価値……人間に対して価値とかいいたくないけど、水月の価値は絵を描くことじゃないでしょ。生きててあたたかくて、笑って喋って、たまにふざけて、そういうところにあるでしょ。なんで、なんでそんなにこだわってんの」
水月はふわりと儚げに微笑んだ。「わからない」と小さくいう。
「でも、みんな立派だからさ。俺とは違うじゃない、みんな。そのみんなが褒めてくれたのが、認めてくれたのが、絵だった。絵を描いていれば繋がれると思ったのかもしれない。生きたかった、存在したかった。それには、誰かに認めてもらう必要があった。唯一認めてもらえるのが、絵だった」
初めて会った頃のことが思い出される。水月はいっていた。今のようなことをいっていた。認められたくて仕方ないのだと、そういう欲望にまみれているのだと、そんな自分は醜いのだと、いっていた。わたしはそれを、人間の生きる理由だといった。
ああ、あの頃は必要以上に強気だった。今よりずっと知らないものが多かったからだろう。知らないというのは愚かさと近いところにあるけれど、その愚かさは、幸せと近いところにある。
「そうだ、だからあんなに絶望したんだ。俺がすごい人だなんて嘘でしかない、それが露顕したと思って」
水月は静かに綺麗に微笑んだ。
「でも今は、……自分に値段がついた。値段なんてつけられないがらくただったのが、初めて……値段をつけてもらえた。ああいや、自分でつけた値段だったけど、それを受け入れてもらえた。俺には確かに、五千円の価値がある」
水月は嬉しそうに笑ってこちらを向いた。
「こんなに嬉しいことはないよ。認められたんだ。俺は存在してる。この自覚は、実感は、自信っていっていいと思うんだ」
「そっか」と笑い返しながら、ちょっと寂しくなる。水月との差が、否定しようのないほど、目の逸らしようのないほど、明らかになった。
「水月は、強くなったね」
彼は途端に、悲しげな目をした。
「はなは……?」
「いいものってなんだろうって、また戻っちゃった。……ほんの一瞬考えただけの答えだけど、結局、自信のある人が強いんだなと思って。……じゃあわたしは、そんな自信ってあるかなって思ったら、……はっきりしなくて。……なんか、……なんか……」
言葉を発するたび、頭と胸の中がぐちゃぐちゃになっていく。
水月はカップを椅子の座面に置くと、ゆっくりわたしとの距離を縮め、わたしの体にそっと腕を回した。自分の腕の先のカップの中で紅茶が揺れるのが見えた。
「少し、休もう」
「……でも、……これは描かないと」
「頑張るのもごはん食べるのも、全部つらくなったら、休むんでしょう? 誰にも邪魔されないところで、ただ座ってるだけでもテレビを見るんでも、できることだけするんでしょう? 頑張れるようになるまで、ごはん食べられるようになるまで」
途端に目の奥が熱くなった、と気づいた頃には、もう滲んだ景色がこぼれていた。
「今日だけ、……そうしてもいいのかな……」
水月が、きゅっと腕に力をこめた。雑巾をしぼったように、次々と感情が頬を伝っていく。
「いいよ。休もう。大丈夫。もう思い切りゆっくりしよう。ね?」
「水月……、水月、」
「大丈夫。いるよ」
「わたし、……なんか変……、こんな、……こんな……」
こんなんじゃないのに。もっと強気で、必要以上に堂々としていて、好きなように生きるためならなんだってするくらいなのに。
「大丈夫」と水月は背中をさすってくれる。
「でも……」
やっと、絵を描くことが生活に入ってきたのに。せっかく、絵を描いて過ごせそうなのに。
「新しいことは疲れるよ。大丈夫、変じゃない。急に絵の描き方が変わって、ちょっとびっくりしてるんだよ」
大丈夫大丈夫、と、背中を叩いてくれる。まるで、子供をあやすように。
「……水月、」
「うん。なあに」
「……ちょっとだけ、……こうしてて……」
「うん。……大丈夫、慌てないよ」
大丈夫、大丈夫と、子供を寝かしつけるように優しく、背中を叩いてくれる。
彼の描きかけの絵を見て「進んでるね」といってみると、「ちょっと自信がついた」と彼はいった。
「自分の絵にお金をだしてくれる人がいるなんて、思わなかった」
「本当……すごいことだよね」
「途端に、許されたような気がした」
「許される?」
水月は静かに、唇にあてたカップを傾けた。その姿に、なんとなくどきっとする。描いてみたい、と思う。
「自分に、価値がついたような気がしてるんだ」
「今まではなかったの?」
「一次も通らないしさ、自分の描いてるものなんて本当に、子供の落書きみたいなものなんだろうと思った。実際、落書きみたいなものだったし。葉月とはなが褒めてくれて、嬉しかったんだけど、……正直いうと」
水月は悲しげに微笑み、「ずっと怖かった」といった。
「ひどい嘘をついてるみたいな気分だった。知られたら全部が壊れちゃうような、全部が終わっちゃうような、許されない嘘。俺はすごくなんかない。すごくなんかないのに、すごい人のふりをしてる。そうやって、葉月とはなを騙してる。もしもそれが知られたらと思うと、ちょっと……」彼はゆるりとかぶりを振った。「すごい、怖かった」
短い沈黙を埋めるように、水月はまたカップを傾けた。
「葉月に幻滅されるんじゃないか、はなといられなくなるんじゃないか。怖くてしょうがなかった」
「ばか」とは無意識にでていた。
「それじゃあ、水月が絵を描く人形みたいじゃん。楽しい会話ができるわけじゃない、笑ってくれるでもない、話を聞いてくれるでもない、それなら、確かに綺麗な絵くらい見せてよってなるかもしれないけど、そうじゃないでしょ。
水月の価値……人間に対して価値とかいいたくないけど、水月の価値は絵を描くことじゃないでしょ。生きててあたたかくて、笑って喋って、たまにふざけて、そういうところにあるでしょ。なんで、なんでそんなにこだわってんの」
水月はふわりと儚げに微笑んだ。「わからない」と小さくいう。
「でも、みんな立派だからさ。俺とは違うじゃない、みんな。そのみんなが褒めてくれたのが、認めてくれたのが、絵だった。絵を描いていれば繋がれると思ったのかもしれない。生きたかった、存在したかった。それには、誰かに認めてもらう必要があった。唯一認めてもらえるのが、絵だった」
初めて会った頃のことが思い出される。水月はいっていた。今のようなことをいっていた。認められたくて仕方ないのだと、そういう欲望にまみれているのだと、そんな自分は醜いのだと、いっていた。わたしはそれを、人間の生きる理由だといった。
ああ、あの頃は必要以上に強気だった。今よりずっと知らないものが多かったからだろう。知らないというのは愚かさと近いところにあるけれど、その愚かさは、幸せと近いところにある。
「そうだ、だからあんなに絶望したんだ。俺がすごい人だなんて嘘でしかない、それが露顕したと思って」
水月は静かに綺麗に微笑んだ。
「でも今は、……自分に値段がついた。値段なんてつけられないがらくただったのが、初めて……値段をつけてもらえた。ああいや、自分でつけた値段だったけど、それを受け入れてもらえた。俺には確かに、五千円の価値がある」
水月は嬉しそうに笑ってこちらを向いた。
「こんなに嬉しいことはないよ。認められたんだ。俺は存在してる。この自覚は、実感は、自信っていっていいと思うんだ」
「そっか」と笑い返しながら、ちょっと寂しくなる。水月との差が、否定しようのないほど、目の逸らしようのないほど、明らかになった。
「水月は、強くなったね」
彼は途端に、悲しげな目をした。
「はなは……?」
「いいものってなんだろうって、また戻っちゃった。……ほんの一瞬考えただけの答えだけど、結局、自信のある人が強いんだなと思って。……じゃあわたしは、そんな自信ってあるかなって思ったら、……はっきりしなくて。……なんか、……なんか……」
言葉を発するたび、頭と胸の中がぐちゃぐちゃになっていく。
水月はカップを椅子の座面に置くと、ゆっくりわたしとの距離を縮め、わたしの体にそっと腕を回した。自分の腕の先のカップの中で紅茶が揺れるのが見えた。
「少し、休もう」
「……でも、……これは描かないと」
「頑張るのもごはん食べるのも、全部つらくなったら、休むんでしょう? 誰にも邪魔されないところで、ただ座ってるだけでもテレビを見るんでも、できることだけするんでしょう? 頑張れるようになるまで、ごはん食べられるようになるまで」
途端に目の奥が熱くなった、と気づいた頃には、もう滲んだ景色がこぼれていた。
「今日だけ、……そうしてもいいのかな……」
水月が、きゅっと腕に力をこめた。雑巾をしぼったように、次々と感情が頬を伝っていく。
「いいよ。休もう。大丈夫。もう思い切りゆっくりしよう。ね?」
「水月……、水月、」
「大丈夫。いるよ」
「わたし、……なんか変……、こんな、……こんな……」
こんなんじゃないのに。もっと強気で、必要以上に堂々としていて、好きなように生きるためならなんだってするくらいなのに。
「大丈夫」と水月は背中をさすってくれる。
「でも……」
やっと、絵を描くことが生活に入ってきたのに。せっかく、絵を描いて過ごせそうなのに。
「新しいことは疲れるよ。大丈夫、変じゃない。急に絵の描き方が変わって、ちょっとびっくりしてるんだよ」
大丈夫大丈夫、と、背中を叩いてくれる。まるで、子供をあやすように。
「……水月、」
「うん。なあに」
「……ちょっとだけ、……こうしてて……」
「うん。……大丈夫、慌てないよ」
大丈夫、大丈夫と、子供を寝かしつけるように優しく、背中を叩いてくれる。