わたしは大声をあげて寝転びたい衝動を必死に抑えこみ、静かに息をついた。

 「休憩にしようか」といってくれる水月に「お茶、淹れてくるね」と返す。そうしながら、キッチンにあったお茶のパックを思い浮かべる。

 「紅茶と緑茶と麦茶、どれがいい?」

 「むぎ……いや、紅茶かな」

 「ホット? アイス?」

 「ホット」

 「了解」と答えて、わたしは部屋をでた。

 キッチンに入って、やかんに水を入れてコンロで火にかける。

インダクション(I)ヒーティング(H)なんて真新しいものは知らない。コンロといえばガスの青い炎だ。

 熱されるやかんの賑やかな音でさえ、今のわたしには癒しとなる。

 おいちゃん——有馬画廊から届いた自分の絵を、ただ写していく。その作業のまあつらいこと。描けば描くほど、返ってきた方の絵のへたさにうんざりする。ただ、売れたのは今のわたしが描くものではなくて、まさにおいちゃんの送ってくれた方の絵なのだ。決してそれから離れてはならない。

 もちろんわたしがそんなことに自分で気がつくはずもなく、これらはすべて、おいちゃんが絵とともに送りつけてきた手紙に書いてあったことだ。

わたしの方にはそんな教えを垂れるような書き付けを添えてきたくせに、水月の方にはそういったものは一切なく、ただ絵だけが返ってきたのだから、もうこのやり場のない感情をどうしようかと思った。

その手紙に気がつく前に「今ならもっとうまく描ける気がする」、「わかる。でも売れたのはこっちのだしさ、変に手を加えるようなことはしない方がいいよ」という話をしていたものだから、その感情の大きさはもう、すごいものだ。

 水月はそのあと、「ちょっと生意気なたとえだけど、歌手がアレンジして歌うような感じだよ」といった。「聴く側は、多く、初めに聴いた元の歌い方が好きで、そのあとに聴いたアレンジした方にもやっとしたりする。絵にもそういうのってあると思う」と。

 キッチンの台に寄りかかり、じゃあ、と口の中で声を転がす。

 じゃあ、いいものってなんなのだろうか。

 歌手は、それはもうみんな、それぞれに強みとか自分の色を持っている。その上で、自分の楽曲をアレンジする。うまい人がうまくやっているのだから受け入れられて当然なのに、そうとも限らない。原曲もアレンジした方も、それぞれ素敵なはずなのに——結局は、好みに合うかどうかということなのだろうか。

 そんなあいまいな世界で、自分を貫くというのは、とても難しいかもしれない。

 Aの人気を見て、Bの形をとっていたところからAに方向転換するのは、あまり安全ではなさそうだ。かといって、Bのまま進んでいって、その先が安全とも限らない。

 結局、自信のある人が一番強いのだろう。自分が一番正しいと、美しいと信じられる人が、遂に天使のあたたかい手に触れられるのだろう。

 さあ、わたしはどうだろうか。それほど強く、自分を信じられるだろうか。

 ああ、わからない。

 わたしはテストを見直したところで、その解答の間違いに気づけた試しがないのだ。