その二階には、開けた『有馬画廊』と、読み方のわからない名前の株式会社の事務所が入っていた。

 画廊の中に入ってみると、「あれ?」と水月が声を漏らした。「ん?」と振り向くと、彼は細いあごでくいと前方を示した。わたしは前方を向き直る。「あ」と声がでた。「だよね」と水月が小さくいった。

 「時本さまで」とその人はいった。それから水月やわたしと同じものを感じたという顔をした。

 「嬢ちゃん」というそれは、まったく薫風堂のおいちゃんの声だった。「あんちゃんも」と彼は水月を見た。

 「ほう……でっかくなったな」と、にやにやと愉快そうに笑う。

 「いやいや、なにを普通に会おうとしてるの。は、おいちゃん? なにしてるの?」

 「見りゃわかるだろ、仕事だ」

 「あんたは薫風堂でしょう?」

 「有馬画廊でもある」

 「ていうか、おいちゃんは風巻さんでしょ? なんで有馬なんて名前つけてるのよ」

 「自分の画廊にどんな名前をつけようとそいつの勝手だろうよ」

 「待ってよ、今、薫風堂はどうしてるの?」

 「あれはこっちがないときにやってるんだ」

 「だから安くしてくれたんだ」と水月がいった。画廊の主が知り合いだとわかったためか、元気そうだ。

 「ああ、画材を売ってるだけじゃないから?」

 「誰彼構わず安くするわけじゃあない」とおいちゃんはいった。「ありゃ学割みたいなもんだ」

 「で、なんで有馬画廊なの?」

 「こだわるなあ」とおいちゃんは困ったように笑った。「俺の旧姓だよ、有馬は」

 「え? 結婚して風巻になったの?」

 「風巻は女房の名前だよ」

 「男の人が名前を変えるの?」

 「勝手だろうよ」とおいちゃんはいった。にやけているから、恥ずかしいのだ。

 「ねえおいちゃん、こっちでは学割は効かないの?」

 「あのな嬢ちゃん、知ってっか? おいちゃんはなこれ、生活のためにやってんだ。三万が限界だ」

 「嘘、本当に?」と思わず声が高くなる。

 「信じないならきっちり三万五千円頂戴する」

 「ええ、信じない」とわたしは答えた。安くならないのかといってはみたものの、わたしたちに画材を売るだけでもおいちゃんはかなり赤字になっているはずなのだ。たまにお礼をしなくては、いよいよ犯罪と変わらなくなりそうだ。

 「きっちり三万五千円お支払い致しますわ」

 「いや当たり前なんだよ」とおいちゃんは苦笑する。「威張るこっちゃねえのよ」と。