落ち着かない。

 乱れていく。

 深く呼吸をすることさえ、もう簡単じゃない。

 どんどん、乱れていく。

 振り払えない。

 鮮明に蘇る。

 一分一秒忘れることさえ、もう簡単じゃない。

 どんどん、満ちていく。

 「おまえのせいだ」と、まぶたの中で涼しい顔をした水月を睨んでも、ほかならない俺自身のせいであると思い知らせるように、胸の奥で満ちていく乱れた熱は冷めない。

 俺のこのいらだちは、あの女への恋ではないかと、水月はいった。

 そんなばかな。どうしようもなく、あの女が気に入らないというのに。

 「悶々としてるね」という声を、初めは自分の中の水月のものだと思った。

 「やっぱり眠れてないね」と楽しそうな声がして、それが実際に外から聞こえるものなのだと理解した。

 「うるさい……おまえのせいだ」

 「俺がなにをしたって? なにかしたといえば、『空がなんで青いかっていったらさ、それはきっと空に住んでる人たちが青く塗ったからだよ』っていったくらいなもんじゃない」

 空は誰かが塗ったから青い。小さい頃、水月がよくいっていたことだ。

 夕方には違う色も見たくなって、赤っぽい色にするんだよ。灰色のときは、空に住んでるみんなが悲しくなってるときで、色を塗れないんだ。だから雨が降るときの空は灰色でしょ? 雨が降るときは、空を塗れなかっただけじゃなくて、みんなが泣いてるからだよ、と。

 「空の話なんかしてない」と俺はいった。

 「想像を話しただけってことだよ。あの頃、空の様子を見て想像したことを話したのと同じように、葉月の様子を見て想像したことを話した」

 俺は軽く吸った息を短く吐きだした。ほとんどなにも見えない夜の部屋で、肩越しに水月へ視線をやる。

 「戻れよ、部屋」

 「愛しい弟を寝かしつけたらね」

 「こんなのはいつものことだ」

 こんな、眠れない夜なんていうのは。

 タオルケットの端をぎゅっと握る。

 俺はあの女のことが好きなのか?

 いいや、まさか。

 「俺はあの女が好きじゃない」

 「嫌いではないけれども?」

 「……うるさい」

 これが相手を好いているときの感情であってはいけない。もしも俺が本当にあの女を好きだというのなら、俺は誰かを好きになってはいけない。

こんなにも攻撃的な、傷つけたいような衝動を腹の中に抱えているようなら、もしもその対象がそばにいるようになったとき、俺はきっとその人を傷つける。

 好きな人を腹の中で魔女と呼ぶような——いや、実際に人にそう呼んで話したこともある——奴が、まともに愛情表現ができるとは思えない。

 こんな激しいいらだちのような感情が俺にとって恋なら、それは決して実らせてはいけない。この激情を実らせても、相手を幸せにできるような形では愛せない。

 「……俺は、恋なんかしてない」

 「そう? その人のことが頭から離れないで、四六時中落ち着かないんでしょ?」

 「憎い相手に出逢ってもそんなもんだろう」

 「そうかな」

 しんとした部屋にぽつんと発された「俺は」という水月の声を、「これはそんな綺麗なものにしちゃいけないんだ」と遮った。

腹の底から這いでたような声は禍々(まがまが)しいほど低く、それを聞いた水月もしばらくなにもいわない。

 「これが恋なら……そりゃ罪の種だよ」もう芽をだしてるかもしれない、と俺は付け加えて苦笑した。

 「間違っても、花を咲かせちゃいけない」

 あの女が俺を好きになるとは思えない。これが純粋な恋で、純粋な俺が純粋な努力をして、水をやって陽にあててやったとしても、この種は、芽は、花を咲かせることも鮮やかな実をつけることもないだろう。

 それでも、俺はこの種を掘り起こさなければならない。この若葉を摘んで、誰にも見えないように手に持っておかなくてはならない。

 この思いを受けとるべき人なんて、いないのだ。

 この感情に恋なんて綺麗な名前をつけたとき、それを肯定してしまうことは、その『恋』を差しだす相手に、おまえは傷ついてもいいのだ、おまえは傷つくべきなのだ、というのと同じことだから。