視界から水彩が引き抜かれた。かたい手が背に触れる。それが下に上に動くと、意識が少しづつそちらへ向いた。

 「大丈夫だから」という声をきちんと聞くこともできるようになってきた。

 「大丈夫だ。別に今回ぱっとしなくたって、来年でも再来年でもやればいいだろう」

 「もう受験の時期になるだろう」

 「そんなもん、唾でも吐いとけばいい」

 当然のようにいう立派な弟に、俺はちょっと笑う。

 「なんだってそんなに怖がる。おまえ、そんな柄じゃないだろ」

 「俺ほど臆病な奴はいないよ」

 「隣のクラスにのりこんできた奴が?」

 「今だからいうけど、あれだって必死だったんだ」

 「そうは見えなかった」

 「見えたらだめだろう」

 短い沈黙のあと、「そんなに怖いなら」と葉月はいった。

 「そんなに怖いなら、やめておくのも悪くない」

 「そんなことしたら一生描けなくなるでしょう」

 「どうして。いつでも描ける。時間があればいいんだ、勉強が落ち着いた頃にまた描いたっていい。今に人生の全部をのっければ、そりゃあ骨が折れるだろうさ。一瞬は一生にはなれない」

 「……俺は、……はなと描きたい」

 「描けばいい。時本もだいぶ粘着質だろう。こうと決めりゃあ、きっとそうするまで諦めない。潰しても潰しきれないよ」

 「今年からは忙しくなる」

 「時本がいったのか? どうせ、おまえのこと考えていったんじゃねえの? 水月を巻きこんでるから今年にけりつけなきゃ、とかって」

 「そうかな」

 そうだったらいい。できることなら、はなのいうように妬まれるほど憎まれるほど幸せになる、そうなるまで幾度でも挑みたい。

 「ていうか、いいだしっぺはあいつだろ。最後まで付き合わせるんだよ。なんだっておまえがそう悩まなきゃならん。せいぜい長旅の道連れにしてやればいい」

 「俺ははなを巻きこみたくない」

 「おまえが巻きこまれてんだよ」

 「失敗したら、どうしたらいい」

 「俺ならどうもしない。今回泣かされたなら次に笑う」

 「ただじゃないんだ」

 「ならちょっと働けばいい。それで小銭を用意して、またこれってので挑む」

 「はなはそんなに付き合ってくれるかな」

 「いや、だからおまえがここまで付き合ってんだって」

 彼は「おまえは」と声を沈めた。「おまえはずっと、他人に付き合ってる。……時本だって、結局は俺に付き合ってるんだ」

 俺は黙ってそのつづきを待った。

 「俺が水月を画家にさせたかった。それを知った時本が、こうして画展を開こうとしてる。なあ水月、嫌ならやらなくていい。絵が楽しくないならやめていい。俺のわがままなんか放っておけばいい」

 今度は葉月が、ちょっと泣きそうな顔をした。俺はそれに笑いかける。

 「俺は前から、葉月に付き合ってるつもりはないよ。好きで描いて、好きでコンテストにだした。今だって、好きではなと描いてる」

 「ならなんで、……あんなに、そんなに苦しむ」

 「俺は、描くのが好きなんだ。はなと描くのはもっと楽しい。それを失うのが怖いんだ。今度の夏休みを逃せば、俺もはなもいよいよ大人になる。やってるのが学生か社会人かわからないけど、絵を描く時間は今みたいにとれない。美大でもいければ違うだろうけど、そういうことは考えてない。だから今が最後の好機なんだ。最初で最後の好機。それを、これを逃せば、待ってるのは現実的で冷静で地道な日常だ。俺はそれが怖い」

 画家になったとして、それでもやはり、日常は現実的で冷静で地道なものだろう。けれども、それは俺にとって、ひどく輝かしく、ちょっと重力の弱いものであるに違いない。同じような日常なら、輝かしく軽やかな方を生きたい。それが、今度の夏休みに懸かっている。だからこれほど怖いのだ。だからこれほど息苦しく、胃が縮みあがって、体が震えるのだ。

 どうしても、はなと描いている将来がほしいのだ。どうしても、その将来を生きることを、許されたいのだ。