「ああ、もう六月が終わろうとしている!」

 俺は集中できない手から画材を離し、代わりに騒々しい頭を抱えた。

 「もう三回は聞いたよ」と葉月は冷静に——というよりは呆れたように——いう。

 「嫌だ、もう……いっそ七月なんかこなくていい! 夏休みなどほしくない!」

 「なんだよ。なに、どうしたの。演劇の練習かなにか?」

 「ああ……これが劇の中のできごとならどんなに幸せだろう!」

 「嘆くな喚くな。どうしたんだよ。プロデューサーが奔走するときには手伝ってやるから」

 「そうじゃない。ああ、課題に頭を悩ましたのがひどく懐かしいよ。嫌だ、もう来年の今へ飛びたい」

 「タイムトラベラーかよ。俺の知らない一面覗かせんなって、しかもとんでもねえ一面」

 「俺はこれまで、なにかに熱中したことがない」

 「そうだったな。陸上も、そんな必死にって感じじゃなかったし」

 「知ってるか葉月、なにかに夢中になるのは空恐ろしいことだよ」

 「知らないな。夢中になってるときほどぞくぞくすることはない」

 俺はなんだか調子の悪い自分の体を抱えるようにした。「ああ、確かにぞくぞくする。変な寒気がする。なのに変に汗かいてる」

 「なにをそんなびびってるの。とうとう野生動物に追われるようになったか?」

 「それならまだいい、俺を形成する偏愛のすべてを糧にして戦おう」

 「一回落ち着け」と葉月はいった。「深呼吸しろ。なんかもう全部変だぞ」

 いわれるままに深く息を吸いこみ、ゆっくりと吐きだす。心なしか気分が落ち着いたような、体の力が抜けたような感じがする。

 ようやくまともに視認した弟は、こちらを向いてまじめな目をしていた。「いいか」と人差し指をこちらに向ける。

 「心配いらない」と手のひらを横に動かし、「ここには俺がいて、おまえがいる」と人差し指を振った。

 「俺はおまえが不安そうにしていると感じている。それは正しいか?」

 「不安そうなんてものじゃない、不安でしかない」

 葉月はにやりと笑った。よく喋るなと思ったのかもしれない。

 「じゃあその理由を教えてくれ。いいな、時間はたっぷりある。おまえが不安に思っていることを正確に教えてくれ」

 俺はたまらずちょっと笑った。まったく、どちらが兄だかわからない。

 「今はもう、花水木が散った」

 「ああ、確かに散ったな」

 「暦は六月、それも終わりにずいぶん近づいている」

 「ああそうだ、今日は六月の二十三日、あと一週間で六月は終わりだ」

 「夏休みは七月の二十日を過ぎた頃に始まる」いよいよ不安で苦しくなってくる。

 「その通りだ。多くの公立高校がそうだろう」

 「俺は、」といった声がみっともなく震える。肘を机にのせ、手を強く組み合わせる。

 「はなと約束した」

 「どんな約束だ?」

 震える喉で改めて深呼吸する。「大丈夫だ」と葉月がいう。

 「今年、……の、夏休みに……」

 声だけじゃなく手まで震えだし、また深呼吸する。一人なら泣いているところだ。

 「大丈夫。夏休みはまだ一か月も先だ」

 「夏休みに、画展を開く……」

 「ほう、いいじゃないか。なにをそんなに怖がる」

 「失敗したくない、終わらせたくない……」腹や背がぞわぞわする。胃がきゅっと縮みあがったように痛く苦しい。「……最後の機会だ、これを、逃せば……」

 「水月」と力強い声がしたけれども、揺れる視界を隠したくて俯く。視界を満たす水彩が滲み、大きく揺れ、粒になって落ちていく。

 「なんで最後だと思う?」

 「もう、……二年になった」

 「うん」

 「もう……機会はない……」

 強く組んだ手が大きく震えだし、体中が酸素を求める。

 「そんなことはない。大丈夫、ゆっくり息をしろ。夏休みはずっと先だ。おまえは俺とうちにいる。穏やかな休日だ、わかるな?」

 何度もうなずいた。

 ざらついた呼吸の音がうるさい。入ってこない酸素に息を吐きだし、改めて吸いこむも肺が満たされない。また吐いて吸ってと繰り返すうち、頭がふわふわしてくる。