「もう夏休みも終わりだね」と水月がいった。空は下の方が深い橙に焼けながら、大部分はすっかり濃紺に染まっている。

 「数学以外はもう終わったのか?」

 「あとはもう、うまくごまかすよ」

 「そうかよ」と俺は苦笑する。

 俺はごろりと大の字なりに寝転んだ。水月と同時だった。

 「今日、また稲葉と卓球センターにいった」

 「ほう」

 「まったくろくでもねえ奴でさ、人の傷口を塩もみしてでも勝ちたいとか()かすんだ」

 「そりゃあ立派な心意気だな」と水月は苦笑する。

 短い沈黙に、遠くに聞こえる犬の声が入ってきた。

 俺は兄の顔を窺った。「おまえは? 楽しいか」

 水月はちょっと驚いた顔をしてから、寂しげに微笑んだ。「ああ、……充実しているよ」

 「楽しいこともそうでもないことも満ち足りてる」

 「なんで楽しくない?」

 「俺は重度のブラザーコンプレックスを抱えててね」

 ずきんとどこかが痛んだ。胸の奥の、穢れきらない幼い部分だった。目の奥が熱くなるような感じがする。

 「……くだらないこと考えてんなよ」

 「葉月は俺に似てるところがある」

 「そうだったかな」

 「ちょっとねちっこい」

 「かなりねちっこいの間違いじゃないか」

 「そうかもしれない。だからそうそう自慢できない」

 「確かに自慢はしないでほしいな。見せつけて幸福が増すわけでもない」

 「それはそうだ」

 「ならそれでいいだろう。見せつけるんでも隠れるんでもなく、ごく普通にいればいい。誰もそれを否定しない。嫉妬に狂って仲を引き裂こうとする奴もいない」

 「そうか?」と水月はこちらを向いた。俺は「ああ」とうなずいて笑い返した。

 「誰もおまえたちの邪魔をしない。……そんなこと、許されちゃいない」

 「どうにも複雑な気分だね」

 「なにも悩むことない」

 俺はゆっくりと上体を起こし、寝転んだままの水月の顔を振り返る。俺たちの会話はどうにもまどろっこしい。

 「俺はもう大丈夫だ。くだらないことを考えて一緒にいちゃ、あいつに失礼だ。おまえは俺にないものを全部持ってる。おまえならあいつを幸せにできる。……頼むよ。あいつをさ、幸せにしてくれよ」

 俺はちょっと、手を差しだしてみる。

 「俺の分まで」

 俺はうまく、恋ができなかった。でも、おまえは違う。一人でうかうかすることなく、相手にもその楽しさを差しだすことができる。

 水月はなぜか涙目になって笑い、俺の手を握った。「泣きてえのは俺の方だよ」と苦笑して、俺も水月の手を握り返す。目の奥の熱っぽさに唇を噛み、手を離した。

 兄と思い人の幸せが約束されているのなら、俺一人の寂しさなどなんでもない。

 「浮気すんなよ」と笑いかけると、兄は「できないよ」と涙目のまま笑った。