軽やかな音とともに、球が向こうのコートへ飛んでいく。勢いなく返ってきた球を叩きつけるようにして最後の一点をとった。
稲葉は「おおーい」とうんざりしたように天井を仰いだ。「なにしてんだよおまえ、俺の練習に付き合えっつったべよ」
「付き合ってんだろうが」
「負かしてどうすんだよ」
「おまえが勝手に負けてんだよ」
男女の二人組だったり女二人といった爽やかで軽やかな世界がいくつもある中で、俺は稲葉と重苦しく灼熱した世界を作っている。きびきびと動いている人もいるが、俺たちは浮いているような気がする。
「よっしゃ、次負けた方はあれな、牛丼奢り」
「やめとけ」と俺は肩をすくめる。「そう気張ることはない、ゆるくいこうぜ」
「二度と貴様を勝たすことはない」
「決して手前に負けることはない」
稲葉がよこした乱暴な球を適当に打ち返す。
隣の台から、「ねえ、あたしたちもなにか賭けようよ」と若い女の声がした。「たとえば?」と同じくらいの年齢と思しき男の声が応じる。ちくしょう、と腹の中で悪態をつく。友達というわけでもないような男二人のつまらない世界の横で楽しそうにしやがって。
さあなにを賭ける? 相手の好きなところの五つや十でもいうか? なんでもいいが俺の視界の外でやってくれ。
八つ当たりのつもりで球を思い切り打つと、コートの向こうで稲葉が大きく動きだす。
「おお、動け動け、のたうち回れ」
「鬼かてめえ」
ラケットはただ振れば球を打ち返す。「俺は今、あまり気分がよくない」
「そんなに俺のこと嫌いかね」
「嫌いじゃないが、この試合はさっさと終わらせたい」
「嫌いじゃんか」と稲葉は苦笑する。「いいよ、終わらせてやる。ぼろ負けさせてやるよ」
「そりゃあ楽しそうだ。ほれ、このストレスを発散させてくれ」
「上等だ、負ける直前くらい楽しませてやるよ」
軽快な鋭い音とともに飛んできた球はこちらのコートから大きくずれ、どこにも当たらないまま俺の足元に弾んだ。
「アウトー」
「角っちょ当たったろう」
「そんじゃなんで俺の足元に落ちてんだ」
「おまえさあ」と稲葉はがっかりして見せる。
「いい加減、俺に優秀の冠返してくれねえ?」
俺は拾いあげた球を手の中で転がし、「なんのことだ」と聞き返す。
「俺、中学の間はすごい奴だったんだよ。まあ、部がそうでもなかったから目立たなかったけど……」
「いや、おまえがすごかった理由それじゃん」
「ちっげえよ」と稲葉を声をあげる。「失敬な奴だな」
「部が弱かったからおまえが強く見えたんだろ」
「おまえ本当まじで失礼」と彼は苦笑する。「春に北高と練習試合やったろ、あんときおまえ、田崎とあたっただろ」
「そのつもりでやったからな」
「中学時代、俺は田崎テツロウにかわいがられていた」
「あの人そんな名前だったのか」いってしまってから、そんな名前だったかもしれないとも思う。テツロウ。哲郎、鉄郎……どんな字が当てられているのだろう。
「学校は違ったけど、田崎は親同士が高校の同級生だとかで、幼馴染みたいなもんでさ、中学で卓球始めるって聞いて俺もくっついて始めたんだけど。本当は中学校のうちに戦うつもりだったんだ。でも部がぱっとしなくて、休みのたびにこういうところで手合わせをした」
「手合わせ」
「なに」
「いや、稲葉らしくない言葉だと思って」
「で、田崎のいく高校も知った。俺はあえて別のところに進んだ。高校では必ず戦おうと思った。部が小さければ、漫画の主人公にでもなってでっかくしてやろうと思った」
まあ、その必要はなかったけどと稲葉は小さく苦笑した。俺の方は「すげえ喋るな」と苦笑した。
「で、ついに田崎のいる北高と試合が組まれた」
「まだいく?」
俺はラケットの上で球を弾ませた。
「一日潰しての総当たり戦だった」
「ああ、そうだったとも」
「俺は田崎とやりたくてしょうがなかった。だがしかしっ、俺のその計画を手前が邪魔しやがった!」
「やかましいな」
「俺は田崎と当たるより先に退場だ」
「それおまえの問題じゃね、俺関係ないじゃん」
「相手がいったんだ、おまえのところの花車葉月という奴はうちの田崎に固着しているらしいと」
「誰だその口軽」
「発信源はマネージャーの女子らしい」
「なんでその女が知ってるんだよ」
「うるせえ、俺の話を聞けよ」
「わかったわかった、喋れよ」
「俺はその相手にそれを聞いてからもう、おまえのことばっかり考えるようになった」
「惚れんなよ」
かこっ、と軽い音がしたかと思えば、顎にかたいものがぶつかった。ピンポン球も勢いよく当たれば痛いものらしい。
「あのとき、おまえが邪魔しなければ」
「そりゃ逆恨みだ、ひどい逆恨みだ。顎痛いし」
「やかましい」と声を張る稲葉に「どっちがだよ」と苦笑する。
「恨むならその対戦相手を恨むべきだ、あるいはその一言で削がれるおまえ自身の集中力」
いいながら、時本の顔が浮かんできた。あの女にはかなり集中力を削がれた。なるほど、稲葉にとって俺は、俺にとっての時本のようなものなのか。気に入らない相手が頭の中を邪魔する。それはさぞ不愉快なことだろう。
「俺はおまえを倒す。そして次に試合を組んだときには、必ず田崎とやる」
「ほう」
俺は顎に直撃した方の球を稲葉の方へ打った。「かごに入れとけ」というと、彼は素直に従った。
こちらに残った球をラケットの上で弾ませる。
「そりゃ応援してやりたいな」
「ばかにしてるだろ」
「まさか」
少し強く打ちあげ、落ちてきたのを思い切りあちらへ打った。
「田崎先輩を潰すのは俺だ」
俺の頭の中には、まだあの天女がいる。兄と親しくしているのを想像するだけで、誰にも負けない自信になる。
「俺に潰されるおまえか?」と稲葉は笑う。
「おまえを潰す俺だ」
あの天女は、勝利の女神と親しいのだ。
稲葉は「おおーい」とうんざりしたように天井を仰いだ。「なにしてんだよおまえ、俺の練習に付き合えっつったべよ」
「付き合ってんだろうが」
「負かしてどうすんだよ」
「おまえが勝手に負けてんだよ」
男女の二人組だったり女二人といった爽やかで軽やかな世界がいくつもある中で、俺は稲葉と重苦しく灼熱した世界を作っている。きびきびと動いている人もいるが、俺たちは浮いているような気がする。
「よっしゃ、次負けた方はあれな、牛丼奢り」
「やめとけ」と俺は肩をすくめる。「そう気張ることはない、ゆるくいこうぜ」
「二度と貴様を勝たすことはない」
「決して手前に負けることはない」
稲葉がよこした乱暴な球を適当に打ち返す。
隣の台から、「ねえ、あたしたちもなにか賭けようよ」と若い女の声がした。「たとえば?」と同じくらいの年齢と思しき男の声が応じる。ちくしょう、と腹の中で悪態をつく。友達というわけでもないような男二人のつまらない世界の横で楽しそうにしやがって。
さあなにを賭ける? 相手の好きなところの五つや十でもいうか? なんでもいいが俺の視界の外でやってくれ。
八つ当たりのつもりで球を思い切り打つと、コートの向こうで稲葉が大きく動きだす。
「おお、動け動け、のたうち回れ」
「鬼かてめえ」
ラケットはただ振れば球を打ち返す。「俺は今、あまり気分がよくない」
「そんなに俺のこと嫌いかね」
「嫌いじゃないが、この試合はさっさと終わらせたい」
「嫌いじゃんか」と稲葉は苦笑する。「いいよ、終わらせてやる。ぼろ負けさせてやるよ」
「そりゃあ楽しそうだ。ほれ、このストレスを発散させてくれ」
「上等だ、負ける直前くらい楽しませてやるよ」
軽快な鋭い音とともに飛んできた球はこちらのコートから大きくずれ、どこにも当たらないまま俺の足元に弾んだ。
「アウトー」
「角っちょ当たったろう」
「そんじゃなんで俺の足元に落ちてんだ」
「おまえさあ」と稲葉はがっかりして見せる。
「いい加減、俺に優秀の冠返してくれねえ?」
俺は拾いあげた球を手の中で転がし、「なんのことだ」と聞き返す。
「俺、中学の間はすごい奴だったんだよ。まあ、部がそうでもなかったから目立たなかったけど……」
「いや、おまえがすごかった理由それじゃん」
「ちっげえよ」と稲葉を声をあげる。「失敬な奴だな」
「部が弱かったからおまえが強く見えたんだろ」
「おまえ本当まじで失礼」と彼は苦笑する。「春に北高と練習試合やったろ、あんときおまえ、田崎とあたっただろ」
「そのつもりでやったからな」
「中学時代、俺は田崎テツロウにかわいがられていた」
「あの人そんな名前だったのか」いってしまってから、そんな名前だったかもしれないとも思う。テツロウ。哲郎、鉄郎……どんな字が当てられているのだろう。
「学校は違ったけど、田崎は親同士が高校の同級生だとかで、幼馴染みたいなもんでさ、中学で卓球始めるって聞いて俺もくっついて始めたんだけど。本当は中学校のうちに戦うつもりだったんだ。でも部がぱっとしなくて、休みのたびにこういうところで手合わせをした」
「手合わせ」
「なに」
「いや、稲葉らしくない言葉だと思って」
「で、田崎のいく高校も知った。俺はあえて別のところに進んだ。高校では必ず戦おうと思った。部が小さければ、漫画の主人公にでもなってでっかくしてやろうと思った」
まあ、その必要はなかったけどと稲葉は小さく苦笑した。俺の方は「すげえ喋るな」と苦笑した。
「で、ついに田崎のいる北高と試合が組まれた」
「まだいく?」
俺はラケットの上で球を弾ませた。
「一日潰しての総当たり戦だった」
「ああ、そうだったとも」
「俺は田崎とやりたくてしょうがなかった。だがしかしっ、俺のその計画を手前が邪魔しやがった!」
「やかましいな」
「俺は田崎と当たるより先に退場だ」
「それおまえの問題じゃね、俺関係ないじゃん」
「相手がいったんだ、おまえのところの花車葉月という奴はうちの田崎に固着しているらしいと」
「誰だその口軽」
「発信源はマネージャーの女子らしい」
「なんでその女が知ってるんだよ」
「うるせえ、俺の話を聞けよ」
「わかったわかった、喋れよ」
「俺はその相手にそれを聞いてからもう、おまえのことばっかり考えるようになった」
「惚れんなよ」
かこっ、と軽い音がしたかと思えば、顎にかたいものがぶつかった。ピンポン球も勢いよく当たれば痛いものらしい。
「あのとき、おまえが邪魔しなければ」
「そりゃ逆恨みだ、ひどい逆恨みだ。顎痛いし」
「やかましい」と声を張る稲葉に「どっちがだよ」と苦笑する。
「恨むならその対戦相手を恨むべきだ、あるいはその一言で削がれるおまえ自身の集中力」
いいながら、時本の顔が浮かんできた。あの女にはかなり集中力を削がれた。なるほど、稲葉にとって俺は、俺にとっての時本のようなものなのか。気に入らない相手が頭の中を邪魔する。それはさぞ不愉快なことだろう。
「俺はおまえを倒す。そして次に試合を組んだときには、必ず田崎とやる」
「ほう」
俺は顎に直撃した方の球を稲葉の方へ打った。「かごに入れとけ」というと、彼は素直に従った。
こちらに残った球をラケットの上で弾ませる。
「そりゃ応援してやりたいな」
「ばかにしてるだろ」
「まさか」
少し強く打ちあげ、落ちてきたのを思い切りあちらへ打った。
「田崎先輩を潰すのは俺だ」
俺の頭の中には、まだあの天女がいる。兄と親しくしているのを想像するだけで、誰にも負けない自信になる。
「俺に潰されるおまえか?」と稲葉は笑う。
「おまえを潰す俺だ」
あの天女は、勝利の女神と親しいのだ。