「で、その気に入らない人っていうのは、なんでまた気に入らないんだ?」

 雨粒が傘を叩く軽やかな音の中、水月がいった。

 「気に入らない人なんていない」

 「せっかく笑わせてくれるなら、苦くじゃなくて楽しく笑わせてよ」

 「なんで気に入らない人がいると思う?」

 「そりゃあわかりやすく葉月が変わったからだよ。ぼうっとしてるっていうか、ちょっと機嫌悪そうだし。なにより、卓球の話をしなくなった。去年はあんな、暑苦しいほど夢中だったのに」

 今度は俺が苦笑する番だった。

 「なんでもお見通しだな」

 「そりゃあ兄貴だからね」と水月は得意げにいう。「そんじょそこらのきょうだいとは違う、年齢より十か月長く一緒にいる」と。

 「まるで憶えてるみたいないいぶりだな?」

 「憶えてる憶えてないの話じゃないよ。これは紛れもない事実でさ、俺の誇りなんだよ」

 「いっつもいうな、それ」

 水月は一拍置いてから話した。

 「好きとか尊敬とか、そんなめんどくさいもんじゃないんだよ。言葉にできるほど複雑じゃない。他人でも自分でもない、友達より確実で自分より繊細な、特別な人」

 「俺は繊細じゃない」

 「そうか? 花の剪定もできなかったのに」

 「あんなの……普通だろ」

 「で、その気に入らない人っていうのはどんな人なの?」

 俺は水月に聞こえるように息をついた。降参の合図だ。

 「女だ」と短く答えると、「ほう」と興味深そうな声が返ってきた。その人とはなにがあったの、とつづきを促しているのだ。

 「別になにがあったってわけじゃない。まあ、自己紹介のときに名前を聞き間違えられて恥かかされたくらい……」

 「自己紹介? そんなのあったんだ」

 「ああ。なんでだったかな……よく憶えてないけど」

 あの女のことばかりが記憶に残って、大切なことはなにも憶えていない。これがテスト中のできごとだったらと思うとぞっとする。

 「新しいクラスに慣れるようにって感じだったのかな」

 「三組はなかった?」

 「うん、なかった」

 俺は傘が覆う雨空を見あげた。ああ、なんで自己紹介なんかやったんだったかな……。

あの女が花車をハナムグリと聞き間違えたことをでかい声で宣言したこと、男なのに葉月という名前なのかと触れてきたこと、それが恥ずかしくて、嫌いなものは無礼者といったこと。

恥ずかしいだけでどうでもいいことばかりが、こびりつくように絡みつくように、記憶されている。

 「その女子のこと、いつも頭の中にある感じ?」

 「考えたくもないんだけどな。勝手に思い出す」

 なにかわかったように、水月は「ふうん」とうなずいた。

 「ねえ、葉月。それさ——」

 静かな雨音に混ざった水月の微かな声は、俺の胸の奥を、今にもどうにかなってしまいそうなほどに騒がせた。「ばかな」と笑うのが精一杯だった。