「最近はなに描いてんの?」葉月は自分のグラスに茶を注ぎながらいった。
「人物」と答えると、そのモデルを察してなのか、「楽しそうだな」と応じた。
「部屋でも描いてるの?」
「ちょっとずつね」
「見てもいいか」
「嫉妬しないでくれれば」
「するかよ」と葉月は乾いた笑いをこぼした。「おまえに完敗だ」と。
「はたから見ても似合ってるんだろうな」
「そうかな。そうだと嬉しい」
「喜べ」という葉月の言葉を半分かそれよりもっと、真に受けて、俺は腰をあげた。その動きを目で追う葉月に、「本物をごらん」と調子にのっていってみると、彼はどこか嬉しそうに笑って立ちあがった。
見慣れた和室は、以前千葉がやってきたときとはがらりと印象を変えている。あのときはこんなに絵はなかったし、画材も見えないところに置いてあった。もう二度と、部屋がこんなふうになるとは 思っていなかった。
「水月らしい部屋だ」と葉月がつぶやいた。
「生活感はあるね」と俺もうなずいた。部屋が生きている感じがする。
俺は座卓に置いてあるカンヴァスの前に置いてあるバケツを持って部屋をでた。
バケツに水を汲んで戻れば、葉月は静かにこちらを向いて座っていた。座卓のこちら側には描き途中のカンヴァスが一枚。それからちょっと離れたところにグラスがある。
俺はいつもの通り作業にとりかかる。絵具を水で溶き、色をのせていく。はなの声、顔、体つき、その全部が鮮明に蘇る。白い肌、やわらかな曲線、それをとり巻く優しい雰囲気。どこか甘い香りのするような、春のあたたかさのような、幸福と満足の感じに包まれる。
「こんなのしか持ってないけど……」と恥じらって現れた、白っぽい色のワンピースを着た姿。この上なく美しかった。かわいくて、触れてみたくて、悲しいような気持ちになった。
晴天のもと、風にワンピースを揺らす姿は、声をかければ、手を伸ばせば、幻だと思い知らされそうで怖いほどだった。「こんな感じ?」といってあちらを向いたりこちらを向いたりする彼女が、自分にしか見えていない、超自然的な存在のように感じられてならなかった。
彼女の背中に羽根を見つけても、彼女の周りに舞う光や小人を見ても、きっと、特別に驚きも疑いもしなかった。ただ、自分がその世界に溶けこむことはないと、理解するだけだったに違いない。
「水月」と呼ぶ声が、「この服、なんか恥ずかしいんだけど」と頬を染める困ったような笑みが、たまらなく愛おしかった。
目の前の時本はなという存在に、涙がでそうになった。うっとりした。胸の奥のずっと深いところから、息をついた。どこまでも甘美な、感動と興奮と、ある種の欲望があった。ただどこまで打つくしい、満ち足りた、幸福なひとときだった。
酔え——。
あの幸福に、感動に、興奮に、切望に、浸るのだ。あたりを満たすそのきらびやかな水に、肺の酸素のすべてを手放し、その心地よい苦しみに、意識を、命を預ける。
そのすべてを、水の面へ駆けあがっていく泡を、自分のもとを離れて舞いあがる意識を、色に託す。カンヴァスにふくらむつぼみに、晴天の光を浴びて咲くはなに、そのすべてを捧ぐ。
惜しむな。
この酸素を。
惜しむな。
この欲望を。
惜しむな。
この意識を。
——惜しむな。
自分の持つもの、そのすべてを惜しむな。
「人物」と答えると、そのモデルを察してなのか、「楽しそうだな」と応じた。
「部屋でも描いてるの?」
「ちょっとずつね」
「見てもいいか」
「嫉妬しないでくれれば」
「するかよ」と葉月は乾いた笑いをこぼした。「おまえに完敗だ」と。
「はたから見ても似合ってるんだろうな」
「そうかな。そうだと嬉しい」
「喜べ」という葉月の言葉を半分かそれよりもっと、真に受けて、俺は腰をあげた。その動きを目で追う葉月に、「本物をごらん」と調子にのっていってみると、彼はどこか嬉しそうに笑って立ちあがった。
見慣れた和室は、以前千葉がやってきたときとはがらりと印象を変えている。あのときはこんなに絵はなかったし、画材も見えないところに置いてあった。もう二度と、部屋がこんなふうになるとは 思っていなかった。
「水月らしい部屋だ」と葉月がつぶやいた。
「生活感はあるね」と俺もうなずいた。部屋が生きている感じがする。
俺は座卓に置いてあるカンヴァスの前に置いてあるバケツを持って部屋をでた。
バケツに水を汲んで戻れば、葉月は静かにこちらを向いて座っていた。座卓のこちら側には描き途中のカンヴァスが一枚。それからちょっと離れたところにグラスがある。
俺はいつもの通り作業にとりかかる。絵具を水で溶き、色をのせていく。はなの声、顔、体つき、その全部が鮮明に蘇る。白い肌、やわらかな曲線、それをとり巻く優しい雰囲気。どこか甘い香りのするような、春のあたたかさのような、幸福と満足の感じに包まれる。
「こんなのしか持ってないけど……」と恥じらって現れた、白っぽい色のワンピースを着た姿。この上なく美しかった。かわいくて、触れてみたくて、悲しいような気持ちになった。
晴天のもと、風にワンピースを揺らす姿は、声をかければ、手を伸ばせば、幻だと思い知らされそうで怖いほどだった。「こんな感じ?」といってあちらを向いたりこちらを向いたりする彼女が、自分にしか見えていない、超自然的な存在のように感じられてならなかった。
彼女の背中に羽根を見つけても、彼女の周りに舞う光や小人を見ても、きっと、特別に驚きも疑いもしなかった。ただ、自分がその世界に溶けこむことはないと、理解するだけだったに違いない。
「水月」と呼ぶ声が、「この服、なんか恥ずかしいんだけど」と頬を染める困ったような笑みが、たまらなく愛おしかった。
目の前の時本はなという存在に、涙がでそうになった。うっとりした。胸の奥のずっと深いところから、息をついた。どこまでも甘美な、感動と興奮と、ある種の欲望があった。ただどこまで打つくしい、満ち足りた、幸福なひとときだった。
酔え——。
あの幸福に、感動に、興奮に、切望に、浸るのだ。あたりを満たすそのきらびやかな水に、肺の酸素のすべてを手放し、その心地よい苦しみに、意識を、命を預ける。
そのすべてを、水の面へ駆けあがっていく泡を、自分のもとを離れて舞いあがる意識を、色に託す。カンヴァスにふくらむつぼみに、晴天の光を浴びて咲くはなに、そのすべてを捧ぐ。
惜しむな。
この酸素を。
惜しむな。
この欲望を。
惜しむな。
この意識を。
——惜しむな。
自分の持つもの、そのすべてを惜しむな。