ベンチに腰をおろし、携帯電話の写真を動かしつつ下描きを進めていると、「おつかれ」と声がした。水月だった。大きく捲られた袖から伸びる長い腕が目立つ。「おつかれ」と答えるのに、ちょっと時間がかかった。

 水月はいつものように、わたしの横に座った。

 「……わたしも、水月……描いていい?」

 水月はゆっくりこちらを見た。ぱっと咲いた笑みで、嫌な予感がする。また冗談か本気かわからない調子で変なことを言いだすつもりだ。

 水月は左手を自分の右肩にのせた。「はなに見られるなんて……どきどきする」

 「やかましいよ」

 「俺、とまってられないよ」

 「頑張ってよ」

 「心臓がばくばくして全身に響く」

 こっちのせりふだよ、といえれば、なんとなく気も楽になるだろうし、ちょっとは話も盛りあがるだろうに、うまく茶化せない。

 「……わたしがおとなしくしてられたんだから、大丈夫だよ」

 「はなもそうだったの?」

 「やかましい」

 「……あのさ、俺って調子にのっていいの?」

 「は?」

 「俺って、調子にのっていいの?」

 「そういう意味じゃない」言葉は聞きとれた。その意味を聞き返したのだ。

 「はなのリップサービスに、俺は毎度かわいく喜んでるんだよ。これって、そのまま表現していいものなの?」

 「うるさい……サービスじゃない……」

 「じゃあ、調子にのっていいんだ」といって、彼は手を伸ばしてきた。「はながかわいがってくれるの、自慢していいんだ?」

 「誰に」

 「はなに」という声とともに、水月の指先が頬に触れた。普段、画材を丁寧に扱っている指先が、頬に触れた。

 顔なんて、せいぜい小さい頃に家族に触られたくらいで、その感覚はもう記憶にない。その初めてといってもいいような感覚に顔を背ける。「意味わかんない……」

 「顔赤い」

 「うるさい」

 「俺の手にかぶれた?」

 「怖。なにでできてんの」

 水月は愉快そうに、くすりと笑った。

 「いいよ、描いて。好きな人に描いてもらえるなんて、そんなに嬉しいことはない」

 「……お礼はいうけど、……その好きな人ってやめて……」

 「じゃあダーリン?」

 「もっとやめて」

 「かわいい。ぎゅってしたくなる」

 「嫌だ」

 「意地悪だね」

 「こんなとこで恥ずかしいでしょうが」

 「こんなとこじゃなければいいの?」

 わたしは水月の背中を思い切り叩いた。「うわいった」と水月は背中を丸める。

 「容赦ないな……」

 「水月が変なこというから」

 「はなは犬とか猫を見て撫でたり抱きしめたくならないの……?」

 「なるよ。どうしたの、急に」

 「それと同じだよ」といって、水月はゆっくりと姿勢を直した。

 「わたしは犬でも猫でもないよ」

 「同じくらいかわいい」

 「本当にうるさい。あんまり変なこといってると、本当、もう、」言葉も案もでてこず、手をばたつかせる。「もう、……どうにかするよ」

 「どうにか?」

 もうだめだ。開き直る。「はいー、もう相手にしませんー。大人な対応とっていきますー」

 「たまにかまってくれないと拗ねるよ」

 「うわめんどくさ」

 「描いてくれるくらいでいい」

 「描くよ。勝手に描いたのが褒められたの」

 「へえ、どこ描いてくれたの?」

 「筆を持ってる手。なんか、印象的だったから」

 「はなの画才を見抜くとは、立派な人だね」

 「モデルがよかったんだよ」

 「モデルがよくても描き手が悪くちゃだめだ」

 水月は「どんな感じにする?」といった。その声は心なしか楽しそうだ。