「しばらく前から、ずっとなんか描いてるでやんすね?」とてらちゃんはいった。もう制服は夏服に変わり、ブレザーはなく、シャツも半袖になった。
わたしはノートを机の中にしまい、保冷バッグのチャックを開けた。
「なに描いてるの?」
「かつ丼」
「ん?」
「かつ丼描いてる」
「かつ丼?」
「うん」
「なんでかつ丼?」
「もうわたし、世界中にかつ丼のおいしさを広めようと思って」
「それで、かつ丼を描いてるでやんすか?」
「うん。わたし、画展開くんだ」
「え、」といってしばらくかたまって、てらちゃんは「まじ?」と目を輝かせた。
「まじ」
「え、いつ?」
「まだ決まってない」
「へええ。でもときもっちって、そんなにちゃんと美術やってたんだ」
「そんな立派なものじゃないよ」とわたしは手を振る。「お母さんの知り合いが画廊やってる人だから、そのつてでやろうと思ってるだけ」
「でもすごいよ。画家になるの?」
「そのつもり」
「かつ丼専門の画家か。お店からいっぱい仕事がきそうだね」
「専門でやるつもりはないよ」とわたしは笑い返す。
「かつ丼の絵で画展を開くの?」
「ほかのものも描きたいよ」
わたしはつい先ほど机の中にしまったノートを取りだした。差しだすと、てらちゃんはぴくりと目を大きくして受けとった。ぱらぱらとページをめくって、ある一か所でぴたりととめた。
「綺麗……」
どっちがよ、といいたくなるような、うっとりした綺麗な目で、てらちゃんはそのページを見つめる。
「モデルはいるの?」とてらちゃんはノートをこちらに向けた。水月がカンヴァスに筆をのせる、その手元を描いてみたものがそこにはあった。
友達、といいかけて、飲みこむ。顔が熱くなってくる。
「……好きな人……」
「格好いいんでやんすか?」
「……うるさい」
「なかなか臆病でやんすねえ、わっちのこともそうそういえないでやんすよ、それじゃ」
「てらちゃんはかわいいから……」
「ときもっちほどじゃないよ。自信持って、さっさと告っちゃうのがいいでやんすよ」
「いや、……その、……向こうから……みたいな……」
てらちゃんは楽しむように、無邪気に、目を輝かせる。
「じゃあもうなにも心配要らないじゃん!」
「でも、……なんであんな人がって……まだわかんない」
「ほほう?」とてらちゃんは意地悪そうに笑う。「ときもっち。これはわっち、これはそのお相手、かなりの色男と見ましたよ」
「かなりの色男だよ。しかも優男」
「完璧じゃないの」
「だから怖いんだよ。おかしいよ、こんなの」
「なんで」
「なんでそんな人がわたしなんかに」
「そりゃあ、ときもっちが魅力的だからだよ。かわいいし、性格も明るい。ちょっと……うん、自信はないみたいだけど」
わたしは深く息をついて、お弁当箱の蓋を開けた。箸ケースから箸を取りだし、ごはんを頬張る。
「絵としてはどう?」
「あたしに絵を見る目はないよ」
「そんな感じの絵にお金をだせる?」
「うん……この手の絵は、お金をだしてでもほしいかも」
「そっか」と答えながら、なんとなく複雑な気持ちになる。
水月自身は、葉月と自分は違うといった。けれどてらちゃんは、絵筆を持った水月の手に、葉月の面影を感じとったのに違いない。
てらちゃんがあの絵に値段をつけられるのは、わたしの画力を買うこととは違う。わたしが描いた手が美しかったのではなく、てらちゃんにとって、あの手、それ自体が美しかったのだ。
本当に美しいものなんてないのではないかと思ってしまう。誰だって好きなものは美しく、嫌いなものは醜く感じるだろう。ばらの花が好きな人はばらの絵に惹かれるだろうし、すずらんが好きな人はすずらんの絵に惹かれるだろう。町並みにしても、東洋のそれが好きな人と西洋のそれが好きな人とで、どちらか片方を描いたものに対する感想は変わってくることだろう。
「あたし、ときもっちの色の塗り方が好き」とてらちゃんはいった。
「色?」
「ああいや、見せてもらったのは鉛筆で描いた絵だし、色の塗り方っていうのは変かもしれないけど。なんていうのかな、ときもっちの絵には個性があると思うんだよ。思い切り描いてるーって感じもするんだけど、すごい丁寧な感じもする。ときもっちの性格がそのままでてる感じ。
ときもっちって、強気なところもあるけど、えらく臆病なところもあるでしょ。その不安定さみたいな、高低差みたいなものを生かせば、すごいことになるんじゃないかな」
「不安定かな。見てて不安になる?」
「大好きなかつ丼を思い思いに描くのもそりゃ素敵な絵になるだろうけど、その好きな人の絵をもっと描くといいんじゃないかな。ときもっちの影の面がうまく作用すると思う」
偉そうにいっても素人だから、あんまり真に受けないでほしいところもあるけど、とてらちゃんは苦笑した。それから、でもねといった。
「ときもっちの好きな人の絵って、なんか、人間らしさがすごくあると思った。ときもっち自身、すごく人間らしい気持ちで描いてるからだろうね」
「人間らしさ……」
「芸術の世界って、そういうの、大事にされるんじゃないの?」
てらちゃんはそういって、大きく開いた口の上でペットボトルを傾け、「あ、蓋」と恥ずかしそうに笑った。
わたしはノートを机の中にしまい、保冷バッグのチャックを開けた。
「なに描いてるの?」
「かつ丼」
「ん?」
「かつ丼描いてる」
「かつ丼?」
「うん」
「なんでかつ丼?」
「もうわたし、世界中にかつ丼のおいしさを広めようと思って」
「それで、かつ丼を描いてるでやんすか?」
「うん。わたし、画展開くんだ」
「え、」といってしばらくかたまって、てらちゃんは「まじ?」と目を輝かせた。
「まじ」
「え、いつ?」
「まだ決まってない」
「へええ。でもときもっちって、そんなにちゃんと美術やってたんだ」
「そんな立派なものじゃないよ」とわたしは手を振る。「お母さんの知り合いが画廊やってる人だから、そのつてでやろうと思ってるだけ」
「でもすごいよ。画家になるの?」
「そのつもり」
「かつ丼専門の画家か。お店からいっぱい仕事がきそうだね」
「専門でやるつもりはないよ」とわたしは笑い返す。
「かつ丼の絵で画展を開くの?」
「ほかのものも描きたいよ」
わたしはつい先ほど机の中にしまったノートを取りだした。差しだすと、てらちゃんはぴくりと目を大きくして受けとった。ぱらぱらとページをめくって、ある一か所でぴたりととめた。
「綺麗……」
どっちがよ、といいたくなるような、うっとりした綺麗な目で、てらちゃんはそのページを見つめる。
「モデルはいるの?」とてらちゃんはノートをこちらに向けた。水月がカンヴァスに筆をのせる、その手元を描いてみたものがそこにはあった。
友達、といいかけて、飲みこむ。顔が熱くなってくる。
「……好きな人……」
「格好いいんでやんすか?」
「……うるさい」
「なかなか臆病でやんすねえ、わっちのこともそうそういえないでやんすよ、それじゃ」
「てらちゃんはかわいいから……」
「ときもっちほどじゃないよ。自信持って、さっさと告っちゃうのがいいでやんすよ」
「いや、……その、……向こうから……みたいな……」
てらちゃんは楽しむように、無邪気に、目を輝かせる。
「じゃあもうなにも心配要らないじゃん!」
「でも、……なんであんな人がって……まだわかんない」
「ほほう?」とてらちゃんは意地悪そうに笑う。「ときもっち。これはわっち、これはそのお相手、かなりの色男と見ましたよ」
「かなりの色男だよ。しかも優男」
「完璧じゃないの」
「だから怖いんだよ。おかしいよ、こんなの」
「なんで」
「なんでそんな人がわたしなんかに」
「そりゃあ、ときもっちが魅力的だからだよ。かわいいし、性格も明るい。ちょっと……うん、自信はないみたいだけど」
わたしは深く息をついて、お弁当箱の蓋を開けた。箸ケースから箸を取りだし、ごはんを頬張る。
「絵としてはどう?」
「あたしに絵を見る目はないよ」
「そんな感じの絵にお金をだせる?」
「うん……この手の絵は、お金をだしてでもほしいかも」
「そっか」と答えながら、なんとなく複雑な気持ちになる。
水月自身は、葉月と自分は違うといった。けれどてらちゃんは、絵筆を持った水月の手に、葉月の面影を感じとったのに違いない。
てらちゃんがあの絵に値段をつけられるのは、わたしの画力を買うこととは違う。わたしが描いた手が美しかったのではなく、てらちゃんにとって、あの手、それ自体が美しかったのだ。
本当に美しいものなんてないのではないかと思ってしまう。誰だって好きなものは美しく、嫌いなものは醜く感じるだろう。ばらの花が好きな人はばらの絵に惹かれるだろうし、すずらんが好きな人はすずらんの絵に惹かれるだろう。町並みにしても、東洋のそれが好きな人と西洋のそれが好きな人とで、どちらか片方を描いたものに対する感想は変わってくることだろう。
「あたし、ときもっちの色の塗り方が好き」とてらちゃんはいった。
「色?」
「ああいや、見せてもらったのは鉛筆で描いた絵だし、色の塗り方っていうのは変かもしれないけど。なんていうのかな、ときもっちの絵には個性があると思うんだよ。思い切り描いてるーって感じもするんだけど、すごい丁寧な感じもする。ときもっちの性格がそのままでてる感じ。
ときもっちって、強気なところもあるけど、えらく臆病なところもあるでしょ。その不安定さみたいな、高低差みたいなものを生かせば、すごいことになるんじゃないかな」
「不安定かな。見てて不安になる?」
「大好きなかつ丼を思い思いに描くのもそりゃ素敵な絵になるだろうけど、その好きな人の絵をもっと描くといいんじゃないかな。ときもっちの影の面がうまく作用すると思う」
偉そうにいっても素人だから、あんまり真に受けないでほしいところもあるけど、とてらちゃんは苦笑した。それから、でもねといった。
「ときもっちの好きな人の絵って、なんか、人間らしさがすごくあると思った。ときもっち自身、すごく人間らしい気持ちで描いてるからだろうね」
「人間らしさ……」
「芸術の世界って、そういうの、大事にされるんじゃないの?」
てらちゃんはそういって、大きく開いた口の上でペットボトルを傾け、「あ、蓋」と恥ずかしそうに笑った。