翌日は土曜日だった。昼過ぎに向かった土手に、はなは白のティーシャツに黒のエプロン、燕脂色で膝丈のジャージという格好でいた。イーゼルにカンヴァスを立てた手前で、絵筆を右手にパレットを見つめている。
彼女がなにか描いているのだと思うとどきどきする。それは、大雑把に、けれどもさっぱりとまとめられた髪の毛が覗かせる白いうなじから、なんとなく目を逸らしてしまうのに似ている。
不意に彼女が絵筆とパレットを腰の横に置いて、半袖をぐいっと肩の上に捲りあげたのにどきっとした今この瞬間の興奮に似ている。
はなはこちらに気がつくとぴたりと動きを止め「やあ、水月」と、ちょっとかたい笑みを浮かべた。
肩の上に丸められた袖を掴んでいた指先は、ちょっと迷うような素振りをしてから、パレットと絵筆を持った。「おじさんみたいなところ見られちゃった」といって恥ずかしそうに笑うような袖をどうにかすることはなかった。
俺はなんとなく、捲りあげられた袖がさらす、白くやわらかそうな、小柄な体にしては長い、細い腕を見ないようにしながら、彼女の隣に腰と荷物をおろした。
「うん、水月はやっぱり和服が似合うね」
突然の無邪気な声に、俺はみっともなく、えっとかあっとかいってから「そう?」と答えた。
昨日のある瞬間から、なんだかおかしい。はなに近づくと、心臓がおれのおかげでおまえは生きているんだぞと騒ぐ。指先が、画材よりもなにか、白くやわらかいものに触れたがる。目が、何気ない景色より、神聖な、尊い美しさを見たがる。
「水月の制服姿も新鮮でよかったけど、やっぱり初めて見たのが和装だったから、その方がしっくりくる」
「中学校……同じだったはずなんだけどね」
はなは一拍置いてから、「あっ」と声をあげた。
「そうだよね、わたしと葉月が同じだったんだし、水月とも同じはずだよね。ええ、まるで知らなかったなあ……」
「俺も全然。名前くらいは知ってたかもしれないけど、顔はでてこなかったはず」
「クラス、三つしかなかったのにね」
「しかも一クラスに三十七人くらいしかいなかった」
「水月って中学のときなにしてた?」
「部活は陸上やってた」
「へえ、オンヤーマーしてセッしてたの?」
「そんで銃声にびびらされてタイムロス」
はなはかわいらしく笑った。
「ねえ、そういえばあれって、なんていってるの? オンヤーマー」
「オン・ユア・マーク」
「ああ、小学校でいう、位置についてー、みたいな?」
「そうそう」
「セッ、は?」
「セット」
「へええ。あれって、ずいぶん滑舌の悪い人がやってるんだね」
「発音がいいんじゃなくて?」
ふふふと笑うはなに「はなは中学校なにしてたの?」と尋ねる。
「わたしは吹奏楽。あまり深く考えずにふらっと入って、大変な目に遭ったの。周りがみんな、なにかしら楽器を習ってた人でさ。部の全体で、未経験者なんてわたしを入れても片手で数えられるような感じで」
「それは災難だったね」
「そんな中で絵に興味持ちだしちゃってさ」
「へえ」
「すごく気になってた美術展にいったんだけど、それが初めての一人でのおでかけで。お母さんは一人で遠出をさせるなんてとんでもないなんていって、お父さんはもう中学生にもなるんだし問題ないだろうって感じで、ちょっとしたいい合いみたいになって」
「俺もおかあさんに一票だな」
「あれっ、じゃあこうしてここにきてくれるのは、わたしのボディガード?」
「それもある」と俺はふざけた。
「そこでいろんな綺麗なものを見てね、なんか自分もやってみたいなって思っちゃって、そのまま家の近くの画材屋さんにいって。そこのおいちゃんに、水彩と油彩なら水彩の方がてをだしやすいっていわれて」
「じゃあ、最初は水彩を?」
「ええ、なんで」とはなは笑った。「そんなの悔しいじゃん、最初から油彩だよ」
「ええ、まず水彩から慣れていって……とかじゃないんだ?」
「うん、そうは考えなかった。いやね、違うの、そのおいちゃんっていうのがさ、わたしを小学生呼ばわりするの。それになんか、親しみやすいっていうよりは失礼な感じで。そんな人にさ、お嬢ちゃんみたいな素人には水彩の方がやりやすいよーみたいなこといわれたら、じゃあ油彩で、ってなるじゃん」
「負けず嫌いだね」
「悔しいんだもの」
かわいい人だと和やかな心持ちになったとき、「この負けず嫌いが決めたの」とはなはいった。
「絵を描いておいしいもの食べて生きていくって。ねえ、どんなに気持ちいいだろうね。絵を描いて、画材を買って、おいしいもの食べて、また絵を描いてって過ごすの。誰にも文句をいわれないで、気に入ってくれた人のために絵を描くの。そんな幸せってないよ」
その言葉で頭に浮かぶのは、葉月の顔だ。俺は別に、はなのように画家になりたいわけではないのかもしれない。誰かに認められたい。けれども、葉月が認めてくれている。俺には、それで十分かもしれない。スーツでも着てわけのわからない書類をどうにかしようと奔走して、三日に四回くらい上司の怒声を聞いて、休日にのんびりと描いた絵で葉月が楽しんでくれたら、それで満足だ。
「ね、水月もそう思わない?」と大きな目に顔を覗きこまれ、肝心の葉月の言葉を思いだす。
わけのわからない書類と闘うのは、見ての通り俺は本物じゃない、それでもおまえは幻滅しないかといったとき、葉月がよく頑張ったといってくれた、そのあとでいい。
「ああ、そう思うよ」
俺はもうひとつ、はなと二人で運試しをする。
傷になった運も実力のうちという呪文が疼く。
その鈍い痛みは、どこか甘美に俺を奮わせる。
彼女がなにか描いているのだと思うとどきどきする。それは、大雑把に、けれどもさっぱりとまとめられた髪の毛が覗かせる白いうなじから、なんとなく目を逸らしてしまうのに似ている。
不意に彼女が絵筆とパレットを腰の横に置いて、半袖をぐいっと肩の上に捲りあげたのにどきっとした今この瞬間の興奮に似ている。
はなはこちらに気がつくとぴたりと動きを止め「やあ、水月」と、ちょっとかたい笑みを浮かべた。
肩の上に丸められた袖を掴んでいた指先は、ちょっと迷うような素振りをしてから、パレットと絵筆を持った。「おじさんみたいなところ見られちゃった」といって恥ずかしそうに笑うような袖をどうにかすることはなかった。
俺はなんとなく、捲りあげられた袖がさらす、白くやわらかそうな、小柄な体にしては長い、細い腕を見ないようにしながら、彼女の隣に腰と荷物をおろした。
「うん、水月はやっぱり和服が似合うね」
突然の無邪気な声に、俺はみっともなく、えっとかあっとかいってから「そう?」と答えた。
昨日のある瞬間から、なんだかおかしい。はなに近づくと、心臓がおれのおかげでおまえは生きているんだぞと騒ぐ。指先が、画材よりもなにか、白くやわらかいものに触れたがる。目が、何気ない景色より、神聖な、尊い美しさを見たがる。
「水月の制服姿も新鮮でよかったけど、やっぱり初めて見たのが和装だったから、その方がしっくりくる」
「中学校……同じだったはずなんだけどね」
はなは一拍置いてから、「あっ」と声をあげた。
「そうだよね、わたしと葉月が同じだったんだし、水月とも同じはずだよね。ええ、まるで知らなかったなあ……」
「俺も全然。名前くらいは知ってたかもしれないけど、顔はでてこなかったはず」
「クラス、三つしかなかったのにね」
「しかも一クラスに三十七人くらいしかいなかった」
「水月って中学のときなにしてた?」
「部活は陸上やってた」
「へえ、オンヤーマーしてセッしてたの?」
「そんで銃声にびびらされてタイムロス」
はなはかわいらしく笑った。
「ねえ、そういえばあれって、なんていってるの? オンヤーマー」
「オン・ユア・マーク」
「ああ、小学校でいう、位置についてー、みたいな?」
「そうそう」
「セッ、は?」
「セット」
「へええ。あれって、ずいぶん滑舌の悪い人がやってるんだね」
「発音がいいんじゃなくて?」
ふふふと笑うはなに「はなは中学校なにしてたの?」と尋ねる。
「わたしは吹奏楽。あまり深く考えずにふらっと入って、大変な目に遭ったの。周りがみんな、なにかしら楽器を習ってた人でさ。部の全体で、未経験者なんてわたしを入れても片手で数えられるような感じで」
「それは災難だったね」
「そんな中で絵に興味持ちだしちゃってさ」
「へえ」
「すごく気になってた美術展にいったんだけど、それが初めての一人でのおでかけで。お母さんは一人で遠出をさせるなんてとんでもないなんていって、お父さんはもう中学生にもなるんだし問題ないだろうって感じで、ちょっとしたいい合いみたいになって」
「俺もおかあさんに一票だな」
「あれっ、じゃあこうしてここにきてくれるのは、わたしのボディガード?」
「それもある」と俺はふざけた。
「そこでいろんな綺麗なものを見てね、なんか自分もやってみたいなって思っちゃって、そのまま家の近くの画材屋さんにいって。そこのおいちゃんに、水彩と油彩なら水彩の方がてをだしやすいっていわれて」
「じゃあ、最初は水彩を?」
「ええ、なんで」とはなは笑った。「そんなの悔しいじゃん、最初から油彩だよ」
「ええ、まず水彩から慣れていって……とかじゃないんだ?」
「うん、そうは考えなかった。いやね、違うの、そのおいちゃんっていうのがさ、わたしを小学生呼ばわりするの。それになんか、親しみやすいっていうよりは失礼な感じで。そんな人にさ、お嬢ちゃんみたいな素人には水彩の方がやりやすいよーみたいなこといわれたら、じゃあ油彩で、ってなるじゃん」
「負けず嫌いだね」
「悔しいんだもの」
かわいい人だと和やかな心持ちになったとき、「この負けず嫌いが決めたの」とはなはいった。
「絵を描いておいしいもの食べて生きていくって。ねえ、どんなに気持ちいいだろうね。絵を描いて、画材を買って、おいしいもの食べて、また絵を描いてって過ごすの。誰にも文句をいわれないで、気に入ってくれた人のために絵を描くの。そんな幸せってないよ」
その言葉で頭に浮かぶのは、葉月の顔だ。俺は別に、はなのように画家になりたいわけではないのかもしれない。誰かに認められたい。けれども、葉月が認めてくれている。俺には、それで十分かもしれない。スーツでも着てわけのわからない書類をどうにかしようと奔走して、三日に四回くらい上司の怒声を聞いて、休日にのんびりと描いた絵で葉月が楽しんでくれたら、それで満足だ。
「ね、水月もそう思わない?」と大きな目に顔を覗きこまれ、肝心の葉月の言葉を思いだす。
わけのわからない書類と闘うのは、見ての通り俺は本物じゃない、それでもおまえは幻滅しないかといったとき、葉月がよく頑張ったといってくれた、そのあとでいい。
「ああ、そう思うよ」
俺はもうひとつ、はなと二人で運試しをする。
傷になった運も実力のうちという呪文が疼く。
その鈍い痛みは、どこか甘美に俺を奮わせる。