空が焼け始め、少しの絵具をパレットに溶いただけでなにも描かないままはなと別れた。

 家に向かいながら、これまで感じたことのない感覚に陥った。不安や恐怖ともいい表せそうな、心地いいような荒波のような感覚。

 許された、という実感だった。それに対する疑いだった。それに対する不安だった。

 はなは、俺の醜い欲求を受け入れ、恥じることはないといってくれた。弟の純情を侵していることを否定した。

 俺の葉月に対する恩愛が、常に美しく、時に悍ましく攻撃的な、どこにでもあるものだと、信じそうになる。俺の他者に対する激しい欲求が、すべての人に宿る、そのすべての人を生かす活力であると、それが本当のように思えてくる。

 はなを疑う理由はない。はなを信じてはいけないなんて、そんなことはない。

 けれども、俺が——このなんとも利己的な俺が——彼女の甘美なささやきをそのまま受け入れてしまえば、もう戻ってはこられないように思う。

激しい欲求で他者を傷つけることを、それが人間というものだと、これこそが生きるということだと正当化し、それが当然になってしまうように思えてならない。

 俺は、本当に穢れてはいないのだろうか。本当に、誰でも持っている欲求を、活力にできる形で大きさで持っているだけなのだろうか。

 俺は葉月を——本当に傷つけはしないのだろうか。

 俺ははなの優しさを、ただ受け入れていいのだろうか。

 「水月」と声がして、足が止まった。振り返ると、優しさで愛らしさで、こちらを惹きつけてやまない人がいた。

 彼女は「忘れもの」といってごく細い筆を差しだした。今日使ったものではないけれど、片づけるときに落としてしまったのかもしれない。

 俺は一歩はなに寄って、礼をいって受けとった。

 その面相筆(めんそうふで)になんともいえない価値を見いだしていると、「ねえ、水月」と優しい声がした。顔をあげると、彼女はまたふんわりと微笑んだ。

 「水月は、本当に悪い人じゃないよ。わたしの方がずっと悪い人」

 「どうして」

 「わたしが今ここにいるのは、偶然じゃないから」

 声をだしてもただ聞き返すことしかできず、俺は黙ってはなの言葉の続きを待った。

 「わたしが水月が名残惜しいからだよ」

 「俺が筆を落としたからじゃなくて?」

 「そう。わたしが名残惜しいからだよ」

 はなはもったいぶるように、けれどもそれ以上にいうことはないというようにそういって、俺の手元の筆をちらと見た。

 「絵筆に限らず、第一発見者が一番怪しいんだよ」と、彼女はいたずらっぽく笑った。

 ふと、なにというわけでもないけれど、小四のある昼休みのことが思い出された。兄だからといって、葉月を二度と一人にはしないと誓った夜、その次の日の昼休みだ。思い出したからといって、あの一件の真相はわかり得ないのだけれど。

 「俺は……第一発見者が犯人っていう話はあまり好きじゃない」

 「単純すぎて?」

 俺はちょっと考えてから、「まあ」とうなずいた。